一人の人間として生きていく上でさまざまなしがらみがある。その多くは切りたくても切れない人のつながりだ。義理と人情の板挟み、忠ならんと欲すれば孝ならず。いずれもしがらみがなせる業だ。
しがらみは漢字で柵と書く。もともとは川の中にくいを打ち並べて、木の枝や竹などをからみつけて、水流をせき止めるためのものらしい。人生においても、まとわりつき、引き止める人間関係がある。それが川の中の柵そのものなので、そのような人間関係をしがらみと呼ぶようになったらしい。
最も深刻なしがらみに家族がある。反抗期の子どもにとっては、親がしがらみとなる。親子関係は選べない。解消できない。夫婦もときとしてしがらみになる。夫婦関係は選べても、簡単には解消できない。結婚にともなって相手の家族、さらには親戚との関係も発生する。それもしがらみとなる。
家族は果たしてきずなだろうか、それともしがらみだろうか。そう言えばきずなも、一説には、騎(馬)を引き止めておくための綱を意味したらしい。どちらも同じ意味だったのだ。家族とはもともとそう言うものだと割り切ることから、真の家族関係が始まる。そうとも言える。
腐れ縁は一種のしがらみだ。腐ってしまっているのであれば、捨ててしまってもいいようにも思うけれども、そうはいかないのが腐れ縁だ。もしかしたら腐れ縁こそ、一生続く縁、人生で最も大切にしなければいけない縁なのかもしれない。
定年は、それまでの仕事上のしがらみを断ついいチャンスだ。定年とともに年賀状を止める人もいる。それはそれでいいのだけれども、しがらみをすべて捨ててしまったら、友達が誰もいなくなったという人もいる。しがらみだと思っていた相手が、実はきずなだった。捨てて初めてわかることもある。
捨てたいしがらみを断つにはどうしたらいいか。それはいい人であることをやめることかもしれない。いい人である限り、相手のことを思ってしまうから、人との縁は断てない。一方で、いい人であることをやめたら、大切な人との関係も断たれてしまう。だからしがらみを断つことはむずかしい。