ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。明日は明日の風が吹く。日本人は風まかせが好きだ。僕もどちらかと言えばそうなのだけれども、水に流してはいけないこともある。風化させてはいけないこともある。
天災は忘れた頃にやってくる。6年前の天災が、もう風化してしまっている。あの時、日本人は何を感じたのか、何を学んだのか。自然と共生することの厳しさ、モノの豊かさのみを求めてきた時代の見直し、人のつながりの大切さ。それらがいつの間にか風化してしまった。また元に戻ってしまった。
戦争体験が風化しつつある。それはいま危機に瀕している。体験を伝える高齢者がいま次々と他界しているからだ。戦争体験が風化したとき、また新たに美化された戦争が始まる。それも平和を口実にして始まる。人類はそれを繰り返してきた。
不都合なことは早く風化させたい。そう思っている人達もいる。風化させるためにまず行うことは、幕引きを図ることだ。実際にあったことでも、それを芝居とみなして、強引にその芝居を終わらせる。そうすれば、人の意識は次第に風化する。それはなかったことになる。
風化にはマスコミの報道も大きく関係する。報道は新しくなければ価値がないからだ。マスコミの宿命とも言える。報道が風化すると人々の意識も風化する。いつしか記憶から消え去っていく。風化させてはいけないことを風化させないために、マスコミはどうあるべきか。それがマスコミに問われている。
風化してほしいこともある。無責任な風評に悩まされている人も多い。かつては、人の噂も75日じっと我慢すればよかった。ところが、ネットでは噂がいつまでも消えない。風化してほしいことがいつまでも残り、風化してはいけないことがいつしか消えていく。それが現代という時代だ。
自然は人為的なものを風化させて、また自然に戻す。それは自然の営みだ。一方で人為的な風化は、そこに意図的なものがあるときは気をつけなければいけない。なぜ風化させる必要があるのか。風化させた後に何を企んでいるのか。風化に抵抗することも、人の営みとして大切なのだ。