吃音 2017.04.09-04.15

僕は片言を話し始めたころから吃音だった。吃音は医学的にその原因がわかっていない。自分で意識するほど、そして周囲から指摘されるほど治りにくくなる。気にしないのが一番なのだけれども、そうも言っていられないのが吃音だった。

吃音はかつてどもりと呼ばれた。いまは差別用語とされているらしい。一方で吃音(きつおん)は、吃音者にとって厳しい言葉だ。カ行は破裂音なので発音しにくい。イ段は口を緊張させるからますます発音しにくい。なぜこのように当事者に厳しい言葉が正式名称になったのか不思議に思ったことがある。

僕が子どもの頃は駅に自動券売機がなく、切符は窓口で購入した。吃音だった僕は行先の駅名が言えないことがたびたびあった。そのようなときは、その先の言いやすい駅名を探して購入した。途中下車になって運賃は高くなるけれども、それは僕にとっての生きるための知恵だった。

僕がどもると、遊び仲間にからかわれた。真似もされた。それはそれで悲しかったけれども、もっと辛いことがあった。それは同情されることだった。普通に扱ってもらいたかった。おそらく善意での同情だったと思うけれども、それが逆に傷つけることがある。幼心に僕はそのことを学んだ。

大学院を出て大学の教職につかないかと当時の主任教授から勧められたときに、このような吃音でもいいのかと聞き返した覚えがある。結局居直って、自分が吃音であることをまず宣言してから講義するようになった。これを繰り返しているうちに次第に吃音であることを意識しなくなった。

僕は教師をしていたからいまでも講演が多い。僕の講演の口調は、一部で「原島節」と呼ばれているらしい。僕はそれを勝手に誉め言葉だと解しているけれども、もしかしたらその口調は、僕が吃音だったことも関係しているのかもしれない。自分では特別だと思っていないので、何とも言えないけれども。

5年前に脳梗塞を発病して一時的に構音障害になった。僕は吃音の経験があったので、自己流で発声訓練をした。動きが鈍くなった唇をそのままにして、喉だけで発声できるようになった。もともと裏声は出せたので腹話術ができるようになった。いざというときの転職先候補が一つ見つかった。