天気予報 2017.04.16-04.22 

天気予報と言えば、昔は当たらないことの代名詞だった。ところが最近はよく当たるようになった。でかけるときに空を眺めずに、まずスマホで傘を持つかどうかを決める人が、いまではほとんどだろう。ぼくはそれも忘れてときどきひどい目にあう。

天気予報が昔に比べればよく当たるようになったのは、コンピュータの計算能力の賜物だ。気候をシミュレーションするときのメッシュ(格子)をもっと細かくとればまだまだ天気予報の精度は上がるらしい。そのためにはスーパーコンピュータの開発にもっと国の税金を投入する必要があるけれども。

かつての僕の情報理論の講義では、天気予報から得られる情報量を例題として、エントロピーの概念を説明した。教科書にもそう書いた。でも、いまはそれが適切ではなくなった。天気予報に確率的な要素がだんだん少なくなったからだ。天気予報は情報理論の対象ではなくなった。

曖昧さや不確実性をなくすことは確かに進歩ではあるが、一方で、未来は予測できないから面白い。曖昧であること、不確実であることをそのまま受け入れて、それとうまく付き合いながら生きることもまた大切だと僕は思っている。天気予報もときどき外れた方がいい。僕は古い人間なのだろうか。

ついこの間まで、軒先にテルテル坊主を吊るして、明日が天気になるように祈った。天気予報が科学的に行われるようになった今、このような風習は廃れてしまうのだろうか。そういえば、テルテル坊主を吊るす軒もなくなった。祈る心もいつのまにか忘れてしまった。

夕焼けの翌日は晴れる。朝焼けの日は雨になる。昔の天気予報は、自然をそのまま眺めることだった。いまは漁師もコンピュータのデータだけで空を見ないで天気予報するのだろうか。そう言えば医療の現場も、医者はコンピュータのデータだけを見て、患者を見なくなった。もっぱらデータ依存になった。

いま僕の手元に、魅力的な気象予報士が勢ぞろいしているテレビ局のカレンダーがある。テレビのニュースでは、天気予報がショーアップされている。それはいいことだ。単純な僕は、それだけで気象そのものに関心を持つようになった。天気予報も楽しくなった

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