強者と弱者 2017.05.07-05.13

弱肉強食の競争の世界では、強者が勝者となり、弱者が敗者になる。それは当然のことなのだろうか。スタートラインが違えば、もともとの強者は有利だ。一方で、生まれながらにハンディキャップがあって、どんなに頑張っても浮かばれない弱者もいる。

強者は、勝者になったのは自分が努力してきた賜物だと言う。そして弱者は努力しないから敗者になるのだと言う。強者が言うように、勝者と敗者はその人の責任なのか。もしそうだとすれば、弱者を救済する必要はなくなる。自らの責任で敗者になったのだから。

経済発展は、弱者をも救うという考え方がある。発展すればまずは強者が潤い、その恩恵が次第に弱者にも滴り落ちる。いわゆるトリクルダウン理論だ。しかしいまは強者も将来を見通せない時代だ。強者が将来に備えて富を独占したらトリクルダウンは成立しない。

歴史的には資本主義は、一時的に格差が生じても次第に是正されて、最終的には社会全体を豊かにしてきたとされる。問題はその一時的な格差が深刻な社会問題となり、社会を不安定にすることだ。それが取り返しのつかない事態を生み出すこともある。第一次大戦の直前がそうだった。

弱者への配慮のない経済発展そして資本主義は、結局は自らの首を絞める。東西冷戦が終結してからのグローバル化に、果たしてその配慮があっただろうか。むしろ新自由主義の名のもとに、強者優先の論理がまかり通った時代であった。結果として国際的にも国内的にも深刻な格差を生み出した。

自由競争に基づく資本主義は、格差をもたらし弱者を生む。発展しているときはまだいい。発展が止まると、中間層も含めて弱者となる。中間層は、その被害者意識を強者でなくて、逆に自らよりも下層の弱者に向けるようになる。そこに新たな差別が生まれ、排他主義がはびこるようになる。

民主主義も、弱者への配慮を忘れると多数の横暴となる。民主主義は、民意を政治に反映する手続きでしかない。それは必ずしも正義を意味しない。民意が誤っていれば、政治も誤ることになる。弱者への配慮を欠いた多数の横暴は、長い目で見れば歴史の審判を受けることになる。