ヨーロッパの中世では、すべては神のものだった。人はその神のものを授かって、あるいは預かって、使わせていただいていた。近代になって、人はそれを自分で所有していると考えるようになった。そしてその所有欲が近代という時代の原動力となった。
所有は法律的にも保証されている。所有権と呼ばれているものだ。物の全面的支配すなわち自由に使用・収益・処分する権利で、日本の民法では206条に規定がある。フランス人権宣言(1789)においても所有権は神聖不可侵であるとされている。こうして、私有財産制が確立した。
所有している限りそれを増やしたくなる。特に金銭はそうだ。たとえば利子はヨーロッパの中世では禁止されていた。それを公然と認めたのが16世紀の宗教改革の指導者カルヴァンだ。この利潤の追求を善として、市場における自由な活動を社会の源泉としているのが資本主義だ。
所有している限り、その所有しているものをどう扱おうと、それは所有者の自由である。民法には処分する権利もある。自分の身体は、その人の所有物だろうか。もしそうだとすると、その身体を処分すること、命を処分することも、その人の自由になる。
子は親の所有物だろうか。少なくとも誕生した段階で、子も一人の人間として人格を持つから、親の所有物ではなくなる。それは当たり前のことのように思えるけれども、あたかも所有物のように思っている親が多くなっているような気がする。まだ生まれる前の胎児に対してはなおさらだ。
子は授かりものであると言われる。その通りだと僕も思うけれども、一方で授かりものだとすると、授かったら親の所有物になる。むしろ、僕は預かりものなのではないかと思う。大切に預かって、その子が自らの力で成人するまで見届ける。それが子育てだ。
所有でなくて預かる。それはすべてのものについて言える。もともと人は何も所有していないのだ。自分を超越した存在(それを神と呼ぶか、自然と呼ぶかは別として)から預かっているに過ぎないのだ。所有の否定は近代という時代の否定につながるけれども、そろそろ近代そのものを見直していい。