作法 2017.05.28-06.03

この歳になると、それなりの格式ばった席に呼ばれることがある。そこで気になるのが作法だ。僕はこれまでそのような作法には全く無頓着だった。もしかしたらとんでもない恥をかいていたのかもしれない。いま恥をかいてもいい年齢になって、作法の大切さが少しわかるようになった。

作法はそれが独り歩きすると、形式の強制になる。作法を堅苦しく感ずるのはそのためだ。作法を知らないと、それだけでよそ者扱いされて、冷たい目で見られる。せっかくの席の居心地が悪くなる。作法はそのように思われることが多いけれども、それは作法の本質ではない。

作法やマナーはなぜ守る必要があるのか。守らないと人から迷惑がられて、結局は自分のためにならないと、いわゆる損得勘定で説明されることもある。その通りかもしれないけれども、作法を損得勘定で割り切ることには少し抵抗がある。得するために作法があるのではない。

そもそも作法はなぜ必要なのか。それは相手への気遣いが形になったものだと聞いたことがある。作法に無頓着だったということが、気遣いのなさだったとすれば、それは反省しなければならない。その意味では僕の人生は反省だらけだ。

作法がわからないときは真似するに限る。例えば茶席では、三人目の席について右へ倣えをしていれば間違いない。亭主に予め初心者であることを言う機会があればそれなりの対応をしてくれる。失敗は誰にもあるのだから気にする必要はない。そのようなときの恥はかき捨てればいい。

ある礼法の家元の言葉。礼法の基本は相手を思い遣ることであるから、相手に恥をかかせないことが大切である。それを聞いて緊張していた僕の気持ちが一気に楽になった。さすが礼法だと思った。礼法の本当の意味、素晴らしさが、その一言でわかった。

作法は文化である。美でもある。作法を学ぶことによって、文化に触れることができる。美を理解することができる。さらには人を思い遣ることができる。そして自分を磨くことができる。そう思えるようになるには、まだまだ僕は、人生経験が足りないけれども。