日本を代表する芸術系の大学で、人工知能(AI)はアートを創作できるかを話題として講演した。猛反発されることを覚悟していたけれども、予想に反して、この問題提起を真摯に受け止めてもらえた。おそらくこれは数年前だったらありえなかったことだろう。
人工知能が創作した小説が、有名な賞の1次審査を通過した。レンブラントの新作?も、346あるとされる全作品を学習して、人工知能によって描かれた。人工知能が創作した作品が、たとえば日展に入選する日はそれほど遠くない。僕はそう信じている。
人工知能が創作した作品に対する評論家の評価は、惨憺たるものになることが予想される。これは模倣でしかない、オリジナリティがない。機械にアートがわかるはずがない。もしかしたらそれは、作品そのものよりも、人工知能の作品であることへの反発かもしれない。
人はコンピュータよりも優れていると、それぞれの時代で言われ続けてきた。コンピュータは計算するだけで思考はできない、プログラムしたことしかできない。いまそれは裏切られている。人工知能は思考もできるし、自ら成長する。アートは果たして人に残された最後の砦になるだろうか。
心を持たない人工知能は、アートを生み出すことはできない。そう言われることもある。本当にそうか。そもそも心とは何なのか。アートとは何なのか。心を定義することができたら、その定義通りの心を人工知能に実装することは将来は可能だろう。アートはどうなのか。定義できるのだろうか。
アートは作品なのか。それともそれを生み出す行為(プロセス)がアートなのか。そしてその行為の主体が人だからアートなのか。もし人の行為あるいは直接的な営みとして生まれたもののみをアートと呼ぶならば、人でない人工知能が生み出した作品は、当然ながらアートではない。
19世紀の写真術の登場は、アートの世界に衝撃を与えた。それによってアートは大きく変容を遂げて進化した。もしかしたら、人工知能は、その写真術に匹敵する、あるいはそれ以上の衝撃を、アートに与えるかもしれない。そして再びアートは大きく進化していくのかもしれない。