2020 2017.08.20-08.26

いま日本は2020年へ向けて躍起になっている。官民を問わず、すべての目標が2020年に向けられ、日本には2020年以降がないように見える。本当にそれでいいのか気になる。そもそも2020年は、歴史的にどのような年になるのだろうか。

日本の戦後を25年を単位として考える。1945年に終戦、1970年の大阪万博で高度成長が終わった。日本の低迷期の1995年に阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件が起きた。そして2020年にオリンピック、25年後の2045年にシンギュラリティが来ると信じている人もいる。

2020年、世界はその50年前の1970年頃に大きな転換期を迎えた。翌年の1971年にニクソンショックがあって、アメリカ中心の金ドル本位制が崩れた。世界経済がおかしくなって、その歪が蓄積されて2020年頃に限界が来る。そう思っていたら、いまアメリカで、前倒しでそれが起きている。

2020年が過ぎたとき、日本はどうなっているのだろうか。もしかしたら、さまざまな歪が噴き出して、絶望的な脱力感が日本を覆っているかも知れない。オリンピックバブルの後始末として、さらに深刻な失われた〇〇年が続く。そうならないような準備が、いまきちんとできているだろうか。

2020年の東京オリンピック開催が決まったときに、密かに期待したことがあった。それは先のオリンピックで失われた日本橋の空を取り戻すことだ。残念ながら2020年には間に合わないけれども、是非とも実現したい。経済再生も必要だけれども、美しい日本の風景を未来に遺すことはもっと大切だ。

2020年へ向けた狂騒曲に僕は異議を唱えるつもりはない。走り出したら最後まで走りぬかなければならない。でも、そろそろ2020年以降へ向けた議論が本格的に始まってもいい。さもなければ、日本は2020年で終焉を迎えることなる。

個人的なことになるけれども、2020年、もしその時まで生きていたら、僕は晴れて後期高齢者となる。認知症が始まっているかもしれない。その意味では、2020年以降がどうなろうと、もはや僕には関係ない。でも、老婆心ならぬ老爺心でやはり日本の未来は気になる。