先逝 2017.10.29-11.04

「先生」に対して「先死」という呼び方があるらしい。先に生まれた「先生」には、いろいろと教えてもらえる。先に亡くなる「先死」からは、それ以上に多くを学べるという意味だ。ただ「先死」は語感が強過ぎるので、ここではやわらげて「先逝」と呼ぶことにしよう。読みは「先生」と同じだ。

僕はたまたま教職にあったという理由だけで、「先生」と呼ばれてきた。抵抗があったが、確かに先に生まれているので、年下の学生からそう呼ばれるのは仕方がないと思ってきた。この歳になると「先逝」がふさわしいかもしれない。「先逝」としてこれからどう生きるか。それが僕のいまの課題だ。

人生の前半は先に生まれた「先生」に生き方を学び、後半は先に死ぬ「先逝」に逝き方を学ぶ。「先逝」が教えることは知識ではない。これからの自らの生き方そのものだ。まさに身をもって逝く直前までの生きざまを示す。それが「先逝」なのだ。

死に方を教えるということは、死ぬまでの生き方を教えることだ。たとえば余命が宣告されたとき、その余命をどう生きるかだ。宣告されなくても、人はいつかは必ず死ぬ。その死ぬまでの生き方を、身をもって示す。これは「先生」にはできない。「先逝」にしかできない。

「先生」ならぬ「先逝」が教えるべき理想的な逝き方なぞ果たしてあるのだろうか。悟りを開いた気持ちになって美しい言葉を人生の後輩に語っても、いざ自らがその身になると見苦しく狼狽する。狼狽しながら自分なりの納得を見出して逝く。それでいいのだろう。「先逝」とはそういうものだろう。

死後の世界があるのかないのか、僕にはわからない。あることを信じて安らかに逝こうとしている人には、それはきっと素晴らしいよねと言ってあげたい。死後は無であることを納得して逝く人にはお疲れさまと言いたい。いずれにせよ「先逝」に逝きかたを学ぶこと。それしか僕にはできない。

ごくごく最近、かけがえのない親しい友人を喪った。ほんの数か月前は元気だったのに、末期の膵臓癌を宣告されてあっという間の逝去だった。君は僕よりも少し早く生まれているので僕の「先生」だったが、「先逝」としても多くを教えてくれた。ありがとう。