裾野 2018.04.15-04.21

僕は東海道新幹線に乗るときは、必ず北側の窓際の席をとる。富士山を眺めるためだ。何度見ても飽きない。特に新幹線の窓越しの富士山はいい。あるときそれは裾野の美しさであることに気づいた。そうなのだ。富士山は裾野なのだ。

自然の山も高層建造物も、目立つのはその頂上だ。しかしそれには必ず支えている底辺がある。自然の山の底辺は裾野、高層建造物を支えているのは下部構造だ。裾野や下部構造があることを忘れて頂上だけを見ていると、自然の山も高層建造物も、砂上の楼閣となる。

人は往々にして頂上しか見ない。頂上だけを見て、そこに選択と集中を繰り返すと、裾野が荒廃する。バブルが崩壊して余裕がなくなってから、日本の科学技術行政は頂上しか見なくなった。裾野を大切にしないと、そのうち山は頂上も含めて大きく崩れることになる。

山は裾野だけ見ていると頂上が見えなくなることもある。裾野は大切だけれども、頂上があることをしっかり見ない改革は、出る杭を打つことにもなる。裾野の一部で不祥事がおきて、そこだけ見て改革すると、それによって頂上が影響を受けることになる。木を見て森を見ずということわざもある。

ノーベル賞は富士山の頂上だ。そこには広大な裾野がある。メディアをはじめとする社会は頂上だけをひたすら持て囃すけれども、ノーベル賞は裾野も含めた富士山そのものの美しさを称えたものと考えたい。頂上はそれを代表しているから意味があるのだ。

頂上にいる人は決して勝者ではない。裾野にいる人たちは敗者ではない。裾野で多くの人が互いに切磋琢磨して競争する。それを陰で支える人もいる。その営みこそが美しい山を支えているのだ。裾野があるから頂上がある。そのことは忘れないようにしたい。

人はひたすら頂上を目指す。特に社会の第一線で活躍しているときはそうだ。一生そのまま更なる頂上を目指しても、もちろんいい。一方で、第二の人生は裾野を生きる。支える側に回る。そのような生き方もあっていい。それによって、それまでは見えなかった裾野の大切さが見えてくる。

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