評論家 2018.05.20-05.26

若いときにほとんど理解できなかった職業に評論家がある。他人が言うことを評論して何が面白いのかと思っていた。当時の僕にとって専門家とは評論される側であって、評論する側ではなかった。もともと僕は評論するよりも実行した方が早いと思う人間だったのかもしれない。

ある評論家からこのような話を聞いた。美術作品や音楽作品はそれだけでは芸術にならない。評論されることにより作品は芸術となる。そこに評論家の役割がある。評論は脇役でなく主役なのだ。作家は激怒するだろうが、僕には面白かった。評論の意味を改めて考えるきっかけとなった。

あなたも評論家になれる。とりあえず本を書こう。本を出版すればマスコミの検索にひっかかり、「その道に詳しい専門家」としてメディアにデビューできる。メディアで知名度が上がれば講演の依頼も来る。晴れて評論家の道をスタートできる。名刺の肩書を評論家と記せるようになる。

ネットの時代になって、ブログを中心に評論の裾野も広がった。そこでの評価はフォロワー、あるいは「いいね!」の獲得数で決まるらしい。広告と連動させれば収入につながり、ビジネスにもなる。いまや評論は、ネットというマーケットの経済活動として展開される時代となった。

飲み屋は評論家だらけだ。みな社会問題に関心があるという意味で、それ自体はいいことだ。一方で、そのレベルの評論がネットで展開されると、待てよと言いたくなる。飲み屋での炎上はその場限りだけれども、ネットでの炎上は人を傷つけ、社会そのものをおかしくする。

いま評論家はどのようなイメージで見られているだろうか。たとえばテレビでのコメンテーターを評論家と勘違いしていないか。コメントはそれで意味があるけれども、評論は違う。時代を洞察して、その在り方を独自の視点で体系的に論考する。それが本来の評論だ。

評論には二通りある。最近そう思うようになった。文化としての評論と消費としての評論だ。前者は歴史に残るけれども、後者は消費を前提に生産されて市場原理にまかされる。この二つをきちんと区別しないと、文化としての評論そのものが変質する。