僕は大学を定年後、組織に属さない人生を選んだ。ときどきなぜかと問われるけれども、いま思うと大学という組織に属していることが嫌になったのかもしれない。大学が、研究と教育そして運営、そのすべてにおいて評価漬けになっていたからだ。
大学の研究は、外からは自由に見えるかもしれないが、評価という重しがある。研究費獲得のための評価があり、獲得したら達成度評価がある。研究者としての業績評価もある。研究そのものが評価を目的とするようになり、そのための書類作りに忙殺される。それで本当によい研究ができるのだろうか。
大学の教育も、いま評価流行りだ。その一つとして授業評価がある。僕は授業を大切にしてきたつもりだけれども、いまの基準では良い評価になりそうもない。毎年教え方を工夫するので、シラバス通りにいかない。雑談も、学生には喜ばれたけれども、マイナスの評価になりそうだ。
大学そのものへの評価もある。大学はいま外部評価が義務付けられている。僕もときどき付き合わされる。僕としては先生方が何を目指しているかを直接聞きたいのに、ほとんどが書類審査だ。評価項目が細かく定められていて、膨大な書類の採点作業に忙殺される。何のための評価かと思うことがある。
評価とは何なのだろうか。ある教育関係の委員会で、客観的な数値にならない評価は無意味だと主張する委員がいた。僕は聞いてみたかった。あなたは自分のお子さんの成長を、そのような数値だけで見ているのですか。数値ではなく自分の目で直接見ること、それが大切なのではないですか。
いま国は評価が大好きだ。ときどき思う。いま国の施策を決めている人たちは、通信簿ばかりを気にして育ってきたのではないか。そのもとで成功してきた人たちにとって、評価は当たり前になってしまっているのではないか。評価は諸刃の剣であることを、どこまで理解しているのだろうか。
僕の評価嫌いは、もしかしたら小さい時にこう育てられていたからかもしれない。他人の目ばかりを気にするような人になるなと。自分自身の生き方をしなさいと。それができたかどうかは疑問だし、正しかったかどうかもわからない。少なくともそのような僕が生きづらい社会になっている。それは確かだ。