働かざる者 2018.06.03-06.09 

「働かざる者食うべからず」。同世代の集まりでこの言葉が話題になった。全員がすでに定年になって働いていない。自分たちは食ってはいけないのか。それともいままで働いてきたから、そのご褒美として働かなくても食っていいのか。

聖書のテサロニケの信徒への手紙2の3章10節に「働きたくない者は、食べてはならない」とある。これを労働価値説に基づいて「働かざる者食うべからず」として社会主義の実践的戒律としたのがレーニンである。日本国憲法にも、第27条に「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ」とある。

いまは必ずしもあくせく働かなくても食っていける。そのような時代になぜ働くことが必要なのだろうか。人は食うために働くのだろうか。それとも食うこととは関係なく、働くことそれ自体が人としての義務なのだろうか。義務だとすれば、それはなぜなのだろうか。誰に対しての義務なのだろうか。

バブルがはじけて以降、日本経済は厳しさを増している。少子高齢化になって、いわゆる生産人口も減っている。移民を受け入れることなく生産人口を増やすためには、働かなくなった日本人を再び働かせる以外にない。手っ取り早い方法は、高齢者の定義を変えて、元気なお年寄りを働かせることだ。

最近、元気な高齢者が中心の集会に呼ばれることが多くなった。そこでは、元気なうちは働き続けます。社会のお役に立つことが人生です。まだまだ若い人には負けません。これからの日本の将来を考えると、まだまだ死ねません。その大合唱だ。僕よりも高齢の方々に圧倒される日々が続く。

高齢者になっても、食うために働かなければならない人もいる。食うことは関係なく、働くことを生きがいとしている人もいる。その人たちにとって働くことは当然だろう。一方でそうでない人たち、働くこと以外に人生の意義を見出している人たちに、働くことを強要する論理はいったい何なのだろうか。

「働かざる者食うべからず」。自分自身の人生として、この言葉は重くのしかかる。そもそも働くということは何なのだろうか。自分のためか。お国のためか。それは人が生きることとどう関係しているのか。その答えを出すためにはまだまだ時間がかかりそうだ。