現代という時代は、なぜか数値が好きだ。数値にならないと信用できないと、数値信仰に近い考え方をする人もいる。ところが、その数値には必ず誤差がある。誤差を考えずに数値だけが一人歩きするとおかしなことになる。その危険性をどこまで自覚しているのか気になる。
理系の学科のカリキュラムには実験がある。そこでは測定にともなう誤差の重要性を徹底的に指導される。測定には必ず誤差がともなう。それを考慮しない測定はまったく意味をなさない。その測定値をどの程度信じてよいかわからないからだ。
テレビ番組の視聴率は小数点以下一桁まで発表される。関係者はそれに一喜一憂する。広告収入がそれによって決まるからだ。その視聴率には統計的に数%の誤差がある。小数点以下の数値は誤差の範囲内だ。視聴率には誤差の範囲も明記したらと提案したら、混乱すると反対された。
入学試験の合否は成績で決まる。ところが合否を決めるボーダーライン近くの成績は、真の能力の判定という意味ではほとんど誤差の範囲だ。サイコロを振って合否を決めても、統計的には問題がない。受験生には酷だけれども、これが入学試験という制度の仕組みであることは知っておいた方がよい。
法人等の会計書類は数字の羅列だ。法律で定められている書類は別として、全体の動向を見るには有効数字3桁でいいのではないかと、あるとき発言したら叱られた。会計書類は最後の一桁が重要なのだと。そこには誤差という考え方はないのだと。
日本人は真面目だから、誤差があると極力それをなくそうとする。その努力には敬意を払うけれども、本当に誤差がないことが理想なのだろうか。むしろ誤差があることを前提として、誤差があっても大丈夫なシステムとすることの方が大切なのではないか。僕のような不完全な人間はそう信じたい。
誤差のない完全な予測なんて不可能だ。むしろ誤差にこそ意味がある。イノベーションがある。若いとき情報理論やフィルタ理論に興味を持っていた僕にとって、誤差に対してどう意味づけするかが重要だった。誤差があるから面白い。それは僕の人生観をも決めていたような気がする。