美 2018.07.01-07.07

人はなぜ美しいものに魅かれるのだろう。そもそも美とは何なのか。それは誰もが同じように感ずるのだろうか。美は人が生きていくうえでどのような意味があるのだろうか。考えれば考えるほどわからなくなる美について考える。

芸術は美の表現とされてきた。いまそれが本当であるか疑問符が打たれているけれども、それは美の定義によるのであろう。幸い僕は美についてはずぶの素人なので、芸術に接するときは、まずは素直になることを心掛けている。新たな美をそこに発見したいからだ。

自然は美しい。人はなぜそのように感ずるのだろうか。厳しい自然の中で暮らしてきた人も、美しく感ずるのだろうか。もしかしたら人工的な世界があまりにも醜いから、自然が美しく見えるのかもしれない。自然を支配してきた自分自身の驕りへの反省が、自然を美しく見せているのかもしれない。

科学は美しい。少なくとも科学者はそう信じている。そのときの美とは何だろうか。簡潔性だろうか。それとも論理の見事さだろうか。僕は研究それ自体にも、さらには論文にも美はあると思っている。それが何であるか。半世紀以上も研究者として生きてきながら、まだわかっていない。

美はときとして差別を生む。たとえば顔の「美しさ」は差別の元となる。気をつけなければならない。一方で僕は、顔にも美があると信じている人間だ。内面的な美はもちろんあるけれども、文字通り外面としての顔にも美がある。それはいまだかつて謎だけれども。

美は、それが主観的であるがゆえに独善がともなう。ある特定の美を絶対視するとおかしくなる。ましてやそれを人に強制してはならない。その意味ではたとえば政治の場に美を持ち込むと胡散臭くなる。ヒトラーの例を持ち出すまでもなく、「美しい国家」や「美しい社会」は決して美しくない。

人はいつも理性的に生きているわけではない。感性的にも生きている。カントは認識や道徳を司る理性とは別に、美的な判断力が人にはあるとした。それは主観的だけれども普遍的で、しかも特定の目的があるからでなく、それ自体で意味を持つ。哲学には「美学」という分野がある。美は奥が深い。