難解な哲学 2018.07.15-07.21

遥か昔、まだ高校生だった頃、僕は哲学に関心があった。哲学を専攻していた兄に影響されたのかもしれない。あるいは単に思春期の通過儀礼だったのかもしれない。人生も残り少なくなって、再び通過儀礼のように哲学書を読むようになった。あいかわらず哲学は難しい。

僕が読む哲学書は入門書だ。タイトルには「やさしい」とか「よくわかる」とかあるけれども、やはり難解だ。読んでいると、こちらが叱られているような気になる。まだこの本を読む資格がないと。もっとしっかり基礎を勉強してから、もう一度出直せと。

なぜ哲学は難しいのか。あるとき気づいた。哲学書は普通の言語で書かれているように見えるけれども、ここでの言語は人工的な専門言語なのだと。哲学書の難解な文章は専門家にしか通じない専門言語なのだと。たとえば宇宙論の専門言語は高等数学で、一般の人にはわからない。それと同じなのだと。

なぜ哲学は難しい言葉で書かれているのか。哲学者には申し訳ないけれども、皮肉っぽく思うことがある。難しい表現をしないと哲学らしくないので、やさしいこともわざと難しく表現しているのではないかと。ときどき僕の専門に近い理系用語もでてくる。それを読むとますますわからなくなる。

ある物理学者が、数学・科学用語を散りばめただけの内容のない一見難解な哲学論文を、ポストモダンの専門誌に試しに投稿した。それがそのまま掲載されてしまった。もちろん大問題となった。哲学者は侮辱されたと怒り、一方で拍手喝采した人たちもいた。俗にソーカル事件と呼ばれている。

哲学は進歩しているのですかと問われることがある。いまの哲学、特にポストモダンと呼ばれている哲学はこれを否定している。僕のような理系からは不思議に見える。進歩がなくて学問と言えるのだろうか。もしかしたらそこに哲学の本質があるのかもしれない。だから哲学は難しいのかもしれない。

伝統的な哲学は、人間のありかた、社会のありかたを探求して、さらには理想的な国家について論じてきた。そもそもそこに理想があるのだろうか。僕の直観だけれども、哲学の成果としてそのような理想が明らかになったら、怖ろしいことになりそうな気がする。哲学はいつまでも難解な方がいい。