知ったかぶり 2018.07.22-07.28

僕はいま「知ったかぶり」の人生を送っている。本当は何も知らないのに、何か発言すると70年以上生きてきた年の功と勘違いされてしまう。いちいち否定するのは面倒なのでそのままにしておくと、結果として知ったかぶり人生になってしまう。

この僕のつぶやきは、知ったかぶりのオンパレードだ。何しろ8年近く毎週一つテーマを決めて毎日つぶやいているのだから、知ったかぶりをしなければ続けられない。140文字という制約は、知ったかぶりにちょうどいい。

いま僕は毎月個人講演会を開いているけれども、そこで話す内容もすべてが知ったかぶりだ。哲学、宇宙論、美術論、そして人生論・・・。知ったかぶりで話していることを百も承知で聴きにきてくれる篤志家が少なからずいる。嬉しいことだ。

大学の講義は知ったかぶりの連続だ。他の先生がそうだとは言わないけれど、少なくとも僕は前の晩に一夜漬けで勉強したことを、知ったかぶりで講義してきた。知ったかぶりをするには、それなりの勉強をしなければならない、少なくとも間違ったことを知ったかぶりで話すことは許されないからだ。

ネットは知ったかぶりの強力なツールだ。わざわざ図書館に行く必要はない。気になる用語に出会ったときに、すぐその意味を検索する習慣を身につける。忘れないうちに整理してメモしておく。それを習慣としておけば、いざというときに知ったかぶりができる。

僕の人生で、知ったかぶりでなかったことは何だろう。専門としている分野も実はあやしい。専門ではないけれども、例えば顔について、僕が発言していることはほとんどが知ったかぶりだ。単なる耳学問を、いかにももっともらしく、知ったかぶりで話しているだけだ。

知ったかぶりは必ずしも悪いことではない。それは自分の無知を自覚していないとできないからだ。無知を知ること。それがソクラテスの哲学(知を愛する学)の出発点だった。自覚するだけでなく、自分の無知を公言して知ったかぶりをしよう。知ったかぶりして、ひたすら知を愛し、追い求めていこう。