何事も完璧にしないと気が済まない、心が落ち着かない人がいる。あくまで自分が納得するまで追求する。本人にしてみればそれが当然で、確かにそれは悪いことではない。一方で、それは無条件でよいことなのか。問題があるとすれば何が問題なのか。
一途に道を究める。妥協をせずに完璧を狙う。そのような技は職人芸と呼ばれる。アートもそうだ。学者の世界も同じかもしれない。それは素晴らしいことだ。このような完璧さは感動を与え、称賛される。一方で、人間社会で完璧を求めると、問題を起こすこともある。その違いは何なのか。
完璧主義者は、万全を期すために過度に高い目標基準を設定し、自分に厳しい自己評価を課し、他人からの評価を気にする傾向がある。結果として、目標を達成できなかった時に抑うつに陥ることが多いとも言われる。人はもともと完璧でないのに、すべてにそうであろうとすると、どこかに無理がでる。
何事も完璧に仕上げようとすると、とんでもないエネルギーを使う。最後のわずか数%を向上させるためのエネルギーは、それまでとは比べられないくらいの量だ。どこかでほどほどにしなければ効率が悪くなることはわかっていても、どこで止めるかがむずかしい。
完璧主義は、人それぞれだから仕方がないとも思う。問題は、周囲の他人にもそれを要求することだ。結果として完璧主義者はつきあいにくくなり、孤立することになる。協調ができないということは、それだけで完璧でないことを意味しているはずなのに、本人にはそれがわからない。
いまの社会は完璧という強迫に怯えているように見える。なぜか。それは責任追及社会だからだ。そこでは、少しでもミスがあると責任を問われる。その責任に怯えて国も含めて組織の管理者は、規則や法律でがんじがらめに縛ろうとする。こうして完璧さを求めて、社会は次第に萎縮していく。
人はもともと弱い存在だ。完璧には絶対にできない。たとえある部分だけ完璧にできても、それはシステム全体としてみると逆にバランスを崩すことになる。ほどほどの感覚が本当は必要なのに、それができない。ほどほどを認めないということは、社会の余裕の問題なのだろうか。