電車の中で、ある男性が独りで怒っていた。周りの人は関わらないようにしていたけれども、その内容は聞こえてくる。最近の世情への怒りであった。本人は正義感に燃えているのだろう。いわゆる義憤である。辞書によると「道義に外れたこと、不公正なことに対する憤り」とある。
義憤と私憤はどこが違うのか。義憤が私憤でないことはどこで保証されているのか。本当は単なる私憤なのに、自分は正しいと勝手に思い込んで、他人に押しつける。その傲慢さが私憤を義憤に変えているだけではないのか。
義憤にはマナーがあると考えた方がよい。思わず沸き起こってくる憤りの感情は、まずは私憤だとして外には出さない。そのまま口にしたら、単なる私憤の発露になる。それが私憤でなくて義憤であることを確認するためには時間がかかる。少なくとも最初の憤りが収まってからでないとできない。
老人になると義憤しやすくなる。最近の世情を憤る気持ちはわかるし、このように言うと叱られそうだけれども、老人の義憤は脳の老化の一つであると考えた方がよい。もちろん僕も例外ではない。誕生日には必ず歳をとっていくけれども、もしこのつぶやきが義憤だらけになったら気をつけよう。
戦時中に、戦争に少しでも反対すると非国民として罵られた。この罵りは、おそらく義憤に駆られてのことだったのだろう。当時戦争は正義であった。聖戦であった。これからも、もし国民全体が義憤に駆られるようなことになったら、日本は確実におかしくなる。それは忘れないようにしたい。
ネットの炎上は、なかには面白半分もあるかもしれないけれども、かなりが義憤に駆られて燃え上がった結果だとも言われている。それぞれが正義感に燃えての行動だとすると、ネットに潜む悪魔は手強い。悪魔は正義感を利用して、社会を動かそうとする。
義憤は正義の名のもとに憤怒する。それは悪いことではない。あなたに義憤する資格がありますかとも言わない。一方で、正義の名のもとだとしたら、何が正義であるかに責任を持たなければならない。正義はそう単純なものではない。自分にとっての正義は他人にとって必ずしもそうではないからだ。