「学断てば憂いなし」これは老子の言葉である。勉強しなさいといつも言われている小学生にとっては、我が意を得たりかもしれない。親からみればとんでもない言葉だ。そのとんでもない言葉が、いまなぜか気になっている。
「学断てば憂いなし」 僕は大学にいたので、学ぶことは仕事あるいは業務だった。ところが定年になって、もはや業務ではなくなったのに、まだ学んでいる。もはやそれは業(ごう)になっている。7年前からの毎月の個人講演会も、8年間前からの毎日のつぶやきも、これだけ続ければ業以外の何物でもない。
「学断てば憂いなし」 なぜ学ぶのか。知識欲を捨てきれないからだ。それはその名の通り欲望だ。老人になってからの知識欲は、脳をボケさせないためにも良いとされる。そう単純な問題だろうか。僕にとってはボケなどどうでもいい。学ぶという煩悩を断ち切れない。それが問題なのだ。
「学断てば憂いなし」 マズローによれば、欲求には承認の欲求、自己実現の欲求がある。知識欲は、その一つなのかもしれない。もし僕がそのような欲求から学んでいるとしたら、恥ずかしいことだ。この歳になって、承認されたいから、自己実現したいから学んでいるとしたら、学びに対して失礼だ。
「学断てば憂いなし」 本当に学を断てば憂いのない毎日を送れるのだろうか。断ったら断ったで、また新たな憂いが生まれそうな気がする。そもそも断つということは、勇気がいることだ。断とうとしながら断てない。断とうとすることは、学ぶこと以上に憂いになる。
「学断てば憂いなし」 学をしても憂いがないようにする一つの方法は、学を空気のような存在にしてしまうことかもしれない。学が空気になれば、知識を他人に自慢することもない。奢ることもない。空気のような存在であれば、意識することもない。意識しなければ憂いになることもない。
「学断てば憂いなし」 勝手に解釈すれば、学を断つとは止めることではない。まずは学びを善しとする価値観から自由になることだ。そして「学断てば憂いなし」を憂うことを断つことだ。次に断つことも忘れることだ。ただ淡々と、当たり前のように、何事もなく学ぶ。そうすれば学は憂いではなくなる。