老年的超越 2018.10.21-10.28

まだ小学校に入る前のことだ。僕は街で出会うお年寄りが可哀想でならなかった。この人たちは近いうちに死ぬのだ。死は怖くないのだろうか。もし僕だったら怖くて発狂するかもしれない。ところが、いまその歳に近くなって、幸いなことに発狂していない。

最近の老年医学で「老年的超越」が注目されているらしい。超高齢者になると、物質主義で合理的な世界観から、次第に宇宙的・超越的・非合理的な世界観を持つようになる。特に日本人は無為自然に生きるようになる。こうして死と生を区別する認識も弱くなり、死の恐怖も消えていく。

「老年的超越」の域に達すると、自分へのこだわりがなくなり、自分中心ではなく他者を重んじる自他性が高まる。そしていまの自分が幸せだと思うようになる。死が迫っていて本当は悲しいはずなのに、逆に幸せ感が高まる。もしそうだとすれば、それは素晴らしいことだ。

「老年的超越」は、医学的には老人の認知症がそうさせるのかもしれない。でも、自らを幸せに思うようになる認知症は、本人はもとより、介護をする周りの人も助かる。同じ認知症でも鬱になるよりもずっといい。やたらに怒りっぽくなって、不満だらけになるよりも遥かにいい。

「老年的超越」にみられる宇宙的・超越的・非合理的な世界観、そして無為自然な生き方は、もともと東洋にあった仏教や老荘の思想に通ずるところがある。それは悟りの境地でもある。人は齢を重ねるにしたがって、自然に東洋思想へと向かうのであろうか。

誰でも「老年的超越」になるわけではない。逆になりにくいタイプがあるらしい。それは「まだまだ若い人には負けません」と頑張るタイプだ。若さのみに価値を見出して、年をとっても、いつまでも若くありたいと頑張る。そのような人は本当に老人になって身体的能力が衰えたとき、幸せ感が得られない。

アンチエイジングではなく、ハッピーエイジングがいい。いつまでも若くありたいと思って加齢に抵抗するのではなくて、それぞれの年代でいまが一番幸せだと思うようになる。そのような生き方ができれば素晴らしい。超高齢者になると「老年的超越」による幸せが待っている。人生にはまだまだ夢がある。