ロゴスの論理 2018.10.28-11.03

僕はもともとは理系だ。そこでは論理が必須だ。ところがいまその論理がわからなくなった。数式による論理に抵抗はない。気になっているのは言語による論理だ。それはロゴスの論理とも呼ばれる。論理学では解決していることかもしれないけれど、とりあえず自分向けに疑問をつぶやく。

言語によってロゴスの論理を展開するためには、まずは対象に名前(名辞)をつける必要がある。逆に言えば名前がないものには論理を適用できない。そこに論理の限界がある。一方で、名前をつけると、その名前が独り歩きしがちである。それは本当にきちんとした論理になっているのだろうか。

人生や社会は遥かに複雑なのに、そこにロゴスの論理を展開するためには、問題を単純化する必要がある。典型的な論理は、事象を二つに絞って排他的な関係をもたせることだが、現実はそれほど単純ではない。さらには論理は、前提が間違っていると結果は怪しくなる。論理的であれば正しいわけではない。

ロゴスの論理では二項対立を基本とする。そこではAでなければBはAの否定になるし、否定の否定は肯定になり、そこで完結している。AとBをともに否定することはない。一方でAとBだけにとらわれず、それ以外の可能性も考えれば、「AでもBでもない」という論理が成りたってもよい。

ロゴスの論理の基本法則は同一律、無矛盾律、排中律だ。このうち無矛盾律は、ある事象がAでありB(非A)であることはあり得ないこと、排中律は、全ての事象がAかB(非A)のどちらかで、それ以外はないことを示す。中間の「AでもBでもある」があってもよい気がするけれども、それは許さない。

ロゴスの論理で、直観をどこまで表現できるのか。ときどきもどかしくなる。直観はイメージとして与えられることが多い。それを言語で表現しようとすると、どうしても一筆書きでなぞることになる。一筆書きのなぞりでは、もとのイメージの全体像はつかめない。

言語を用いてロゴスで論理を展開するときに、そこに価値観が混入すると、その論理はおかしくなる。たとえば優劣、善悪、美醜などの価値観だ。ときとしてそれは結論ありきの論理になる。いまそのような論理まがいが横行しているように見えるのは、偏見だろうか。