レンマの論理 2018.11.04-11.10

ロゴスの論理に対してレンマの論理と呼ばれるものがあることを知った。哲学者である山内得立が論じている。早速、その主著「ロゴスとレンマ」「随眠の哲学」を手にしたけれども難しい。このつぶやきをメモ代わりとして苦戦しながら読む。

ロゴスの論理は「肯定」と「否定」の二項対立で展開される。これが同時に成り立つことは認めない。これに対してレンマの論理は、これに加えて「肯定でも否定でもない」と「肯定でも否定でもある」も認める。これを認めると普通はそこで思考停止に陥るが、レンマの論理ではそこに意味があるとする。

1)肯定と2)否定だけを対象とするロゴスの論理はディレンマ(二句分別)、3)肯定でも否定でもない、4)肯定でも否定でもある、も含めるレンマの論理はテトラレンマ(四句分別)とも呼ばれる。仏教用語としての四句分別は4)が先であったが、山内得立は3)を先にして論理を展開した。

ロゴスの論理は、Aを有あるいは真、Bを無あるいは偽として、このAとBを分別する。そしてひたすら有ること、真であることを問題とする。これに対してレンマの論理は、「AでもないBでもない」ところに本質があると主張する。AでもなくBでもないことを「非」として、そこを存在の根拠とする。

ロゴスの論理では、排中律を仮定している。AでなければBでその中間は認めない。これに対してレンマの論理では「AでもありBでもある」という形で中間を認める。仏教ではこれを中観と呼ぶ。これを体系化したのが紀元150~250年頃の南インドの僧、龍樹(ナーガールジュナ)であった。

ロゴスの論理では、それぞれが独立してあるとする。主体と客体を区別して対決させる。これに基づいて個人中心の近代の思想がある。これに対してレンマの論理では、むしろ関係が大切だとする。すべては縁起でつながり、それだけで確かな存在は一切ない。そう言い切るのが「空」の思想だ。

ロゴスの論理に基づいた近代という時代は、そろそろ限界が来ている。ロゴスの論理を「非の思想」あるいは「空の思想」にまで拡張しようとするレンマの論理は、もしかしたら近代を超えるヒントとなるかもしれない。そう思いながら、おそらくは終わりがない悪戦苦闘が続く。