二番 2018.11.11-11.17

かなり前になるけれども、国の仕分け会議での「二番(二位)ではだめなんですか」という発言が話題になった。トップを目指していた人にとっては論外の発言に聞こえたかもしれないけれども、僕は少なくとも自分自身の生き方としては、「二番でもよいのでは」と内心思っていた。

僕は学会を始めとして、いくつかの研究組織や教育組織の創設に関わってきた。でも初代のトップにはなっていない。ほとんど二代目だった。旗振り役の器ではない僕は、むしろ裏方に徹した方がよいと思っていたからだ。幸い初代がみな素晴らしい方であったので、その組織は順調に伸びている。

僕の出身校は受験校とされているけれども、実は東大入試ランキングでトップをとったことはない。むしろトップでないことを大切にしてきた。それを誇りとしてきた。トップをとったら学校そのものの校風が変わってしまう。それを恐れたからだ。もちろん負け惜しみではない。

トップになることは素晴らしいと思うけれども、トップになったらなったで、おそらくはそれは孤独な立場となるであろう。それ以上の目標がないし、いつ追いつかれるかという恐怖に日夜悩まされているかもしれない。トップを避けて楽をしてきた身なので、これは想像でしかないけれども。

トップでなく二番になることは、トップよりも易しいようで実は難しい。二番を目指すと、往々にして三番、四番、五番・・・となってしまうからだ。二番は結果としてなるもので、目指すものではない。このことは知っておいた方がよい。

トップになると目立つ。個人的には、目立ってよいことはほとんどないように思う。本当にやりたいことをするには、目立たない方がよい。衆人環視のもとでするなんて真っ平だ。好きなことは人の目を気にせずに自由にやりたい。

トップよりも二番を好む。おそらくそこに僕の限界があったのだろう。「二番がよい」は、いい加減に生きてきたことの弁解だったのではないか。そう言われればその通りであると白状せざるを得ない。でもいまになっては居直るしかない。若い人には勧めないけれども、これからもそのような人生でいこう。