研究サロン 2018.11.25-12.01

僕は研究者として生きてきた。ときどき思うことがある。何が楽しかったのだろう。もちろん研究は好きだったけれども、研究を構想することが好きだった。そして何よりも、同じことに関心をもっている仲間と議論することが楽しかった。その場が「研究サロン」だった。

僕が学生のときの思い出として、研究室を横断して大学院生が勝手に集った自主ゼミがある。教員になってからは、同僚の先生とともに、近隣研究室の大学院生も巻き込んで定期的なサロンを持った。他大学の先生も参加して、新婚早々の僕の自宅を会場として、夜遅くまで議論したこともあった。

新たな学術の黎明期には、自由に議論を交わした研究サロンがある。僕は参加しなかったけれども、日本のAI研究者のルーツとして70年代後半から80年代にかけてあったAIUEOは有名だ。ささやかな身近なサロンとして、80年代後半から90年代前半にはプライベートな顔の研究会もあった。

ノーバート=ウィーナーの著書「サイバネティックス」の序章には、その研究は食後の丸テーブルを囲んだ討論の場で生まれたとある。いまでは名の知れた錚々たる大学者がそこに集って、喧々諤々の議論がおこなわれた。戦時中から戦後にかけてのことである。

いま研究者は忙しくなった。とりあえず成果をだすことに忙殺されて、サロンのような場で夢を語り合う時間がほとんどなくなっているように見える。いつからそうなってしまったのだろうか。研究に競争原理が導入されたのはバブルがはじけて以降であるが、それも関係しているのだろうか。

代表的なジャーナルに論文が載るまで、研究者同士で議論をしてはいけない。若手研究者にそう指導している分野があることを知って驚いた。学会での口頭発表も制限されているらしい。そこではサロンでの自由な交流など、とんでもないことなのだろう。それは研究と言えるのか。改めて考えさせられた。

研究サロンのような場で自由に夢を語り合う。そして切磋琢磨する。それは古き良き時代のノスタルジアだと言う研究者がいるけれども、僕は信じない。いつの時代も研究は楽しいものだ。そのことを若手の研究者に伝えることは、僕の年代の研究者の大切な役割なのだ。そう自分に言い聞かせている。

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