「有る」 2018.12.09-12.15

そんなことを考えて何になると言われそうだけれども、最近「有る」ことと「無い」ことに関心を持っている。それは、「有る」ことを前提として、それを追い求めた時代が近代だったと思うからだ。近代という時代を見直すときに、そこから考え直す必要があると思ったからだ。

キリスト教が中心であった中世のヨーロッパでは、「有る」ことはすべて神が保証していた。それは神が絶対的な存在者であったからだ。その絶対有としての神が創造したものは「有る」として疑う必要はなかった。ところが、近代になって、そうもいかなくなった。

近代は「有る」ことの根拠を追い求めた時代であった。デカルトは「有る」ことをすべて疑い、最終的に疑っている自分が「有る」ことは疑えないとして、そこをすべての出発点とした。それが有名な「われ思う、ゆえに我有り」である。

「有る」ことを確実に導く方法が合理的思考であり論理だ。西洋の思想はこれに基づいて構築されてきた。特に近代科学は、確実に「有る」ことのみを蓄積することにより発展してきた。それは大成功を収めた。科学は神に代わって「有る」ことを保証するようになった。我々はその恩恵を受けている。

「有る」に対して「無い」がある。この二つは反対概念であるが同格ではない。「無い」は「有る」を否定することによってのみ意味を持つ。その意味で前提となるのは「有る」だ。それはアリストテレス以来の西洋の思想の基本だった。それを疑わずに発展した時代が近代だった。

東洋思想は、必ずしも「有る」が前提ではない。たとえば、「AはAでない。ゆえにAである」とする論理もある。般若の論理と言われている。そこでは西洋思想とは逆に「無い」ことが「有る」ことの根拠となる。このような論理があることを知ると、発想が自由になる。すべてを疑ってみたくなる。

僕はいま「有る」ことをひたすら重んじる近代の思想に、おこがましくも疑問を持っている。それは「有る」ことの探求には終わりがないはずなのに、人は往々にして「有る」ことを中途半端に知ってしまうと、すべてを知った気になって傲慢になるからだ。その傲慢になった時代が近代であると思うからだ。