目利き 2018.12.23-12.29

歴史を少し紐解くと、それぞれの時代に「目利き」がいたことがわかる。たとえば足利義満は文化の目利きだった。身近にそれぞれの分野のプロ(同朋衆や御用絵師)をおいて、水墨画、能・狂言、茶の湯に代表される室町文化を花開かせた。安土桃山時代の千利休、大正昭和期の柳宗悦も有名だ。

目利きとしてすぐ思い浮かぶのは骨董品の鑑識であるが、もちろんそれだけではない。時代を見る目もある。何よりも大切なのは、人を見抜く目利きだ。才能に加えて、その人の人間性、さらには将来性や可能性を見抜く。それができる人が本当の目利きだ。

目利きはそう簡単になれるものではない。経験がものを言う。不断の努力と厳しい修業が必要とされる。もちろんセンスも要求される。そして何よりも、信頼されることが大切だ。鑑識眼だけでなく人間としても信頼されなければ、真の目利きにはなれない。

いまは目利きが不在の時代だと言われる。そもそも目利きを信じない時代となっているのかもしれない。目利きの鑑識眼は凡人にはわからない。わからないから、かつては凡人は目利きを尊敬した。ところがいまでは、主観は信じられないとして、もっぱら客観性を重視する。目利きの出番はなくなる。

目利きを信じない人は、自分の目を信じることができない。そのような上司は、部下の目も信じない。ひたすら客観的なデータやエビデンスを要求する。そうして育った部下は、またその部下に同じことを要求する。次第にその組織には、自分の目で判断できる目利きが、一人もいなくなる。

人間の目とAIの目、どちらの鑑識眼を信じますか。こう質問されたらあなたはどう答えるだろうか。もちろん人間の目を信じたいと思っている人は多いだろう。けれども時代は次第にAIを信じる方向になっているのではないか。最近の風潮を見ると、そんな気がしてならない。

目利きを信じなくなった時代。それは何を意味するのだろうか。近代は人間中心主義であったけれども、そもそもその人間が信じられなくなったのか。それが近代の帰結だとすれば、これから人は、自分が主体的な判断をおこなう人間であることをやめて生きなければならない。そういうことなのだろうか。

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