顔施 2018.12.30-2019.01.05

仏教には、地位や財産がなくてもできる施しがある。その一つが「顔施」だ。「がんせ」と読む。和顔施とも言う。人に対して笑顔で優しく接する。それだけだから、顔さえあれば誰でもできる。あなたにもできる。もちろん僕でもできる。

年の瀬を迎えて、この一年を振り返る。今年は漢字一字で表すと「災」だった。確かに集中豪雨や地震、台風、記録的な猛暑など、さまざまな災害があった。そのようなときの笑顔は不謹慎のように思われるけれど、僕は逆だと思う。顔施としての笑顔は慰めを与える。生きるエネルギーを与える。

新しい年を迎えるたびに思う。今年はいい顔ができるだろうか。今年こそ笑顔でいられるだろうか。社会の役に立つことはほんどできない年齢になったけれども、笑顔だけでよければまだまだできる。できれば死ぬまで笑顔でいて、恩返しの意味で顔施をしたい。そうして死ねれば幸せだ。

顔は自分のためにあるのではない。自分のためであれば、どんな顔をしようが自分の勝手だ。でも、そういうものではない。周りの人が迷惑する。周りの人のためにもいい顔をしよう。そうすればいい顔が周りに伝わる。みながいい顔になる。それが顔施だ。

顔施は一方的に与えるものではない。必ず自分に戻ってくる。自分が笑顔で優しく接すれば、相手も自然に笑顔になる。優しくなる。それによって自分も施しを受ける。顔施はお互い様なのだ。いい顔つくりは、自分だけでなく相手との共同作業なのだ。

顔施は健康にもよい。心理学で表情フィードバック仮説と呼ばれているものがある。笑顔をすれば、気持ちがよくなる。楽しくなる。楽しくなれば身も心も健康になる。みなが健康になれば、医療費も少なくなる。日本の財政の負担もなくなる。顔施は国を救う。

笑顔は簡単なようで難しい。無理に笑顔をしようとすると、顔が引きつる。何事も無理はよくない。顔施をお布施と考えると堅苦しくなるけれども、自分も含めてみなが楽しくなればそれだけでいい。楽しいからみなが気軽に顔施をする。それでいいのだ。それが顔施なのだ。