「無い」 2019.01.06-01.12

仏教の般若心経は、わずか300字足らずの経典であるけれども、そこには「無」の文字が21字もある。これに対して「有」は1字だけだ。簡単には比較できないけれども、なぜ「無」がこれほど多いのだろうか。なぜ「有る」ことよりも「無い」ことを強調するのだろうか。

「無い」は二通りある。一つは「有る」の否定形、つまり反対語としての「無い」だ。いま一つは、有と無を超越した「無い」だ。そこには有と無も含めて「一切が無い」。そもそも有と無を分別すること自体に意味がない。無理に分別するから煩悩が生まれる。

釈迦が入滅して百年後に仏教が上座部と大衆部に分裂した。上座部の「説一切有部」では、一切のことわり(法)が過去・現在・未来にわたって「有る」と説かれた。これを大乗仏教の龍樹が否定した。一切は縁起でつながり、それ自体で独立した存在は「無い」。これが龍樹の「空」の思想である。

近代日本を代表する哲学者に西田幾多郎がいる。西田の課題は、禅の思想を哲学で説明することであった。そこでの重要概念が「絶対無」である。述語の論理によって「有る」の根拠を追い求めると「絶対無」に行きつく。その難解な哲学は、田邊元や和辻哲郎、三木清などの京都学派を育てた。

なぜ「無い」が大切なのか。研究者として頷けるところがある。有よりも無、すなわち知っていることよりも知らないことの方がはるかに多いからだ。知ったことが絶対であるとすると研究者は傲慢になる。知ったことは知らないことのほんの一部だと思えば、研究者は謙虚になれる。

生と死の問題も同じかもしれない。有である生に執着していると、死ぬことを怖れるようになる。逆に、無である死がまずあって、たまたま泡のように生じて消えるのが生であると考えれば、死ぬことはその本来の姿に戻るだけになる。人はもともと「一切が無い」世界にいるのかもしれない。

哲学で「無い」ことを強調すると、虚無主義だとされる。東洋の思想はそうなのだろうか。むしろ逆である気がする。「有る」ことに執着すると、そこで動けなくなる。「無い」ことに目覚めることによって「有る」から自由になる。そこから新たな発想が可能になる。

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