ガリ版 2019.01.20-01.26

学校の授業では配付物のコピーは日常茶飯事だ。僕が小学校のときの先生方は大変だった。その当時はガリ版と呼ばれる謄写版しかなかったからだ。黒い腕カバーをつけて謄写版に向かうことが、先生方の放課後の日課だった。クラス委員をしていた僕は、それを手伝わされたのでよく覚えている。

若い人はまったく知らないだろう。ガリ版は、ヤスリ盤の上にロウ引きの原紙を乗せて、そこに鉄筆で文字を手書きすることによって版を作る。そのときガリガリと音がするのでガリ版という。ローラーを使ってそこから印刷インキをにじみだせば印刷ができる。印刷する紙はワラ半紙だった。

ガリ版で、ロウ引きの原紙を削るように文字や図を記すことを「ガリを切る」という。きれいに印刷するためには、文字は方眼のマス目一杯に四角く記す必要がある。それぞれの文字の縦線と横線は等間隔にしないと、印刷したときに文字がつぶれてしまう。ガリ版には独特の書体があった。

ガリ版の原型は、かの有名なエジソンが発明した「ミメオグラフ」らしい。1894年に日本の堀井新治郎父子によって、いまの形の謄写版印刷として実用化され発売されている。印刷を大衆化したものとして、その功績はグーテンベルグの活版印刷機に近いものがあると、僕は密かに思っている。

僕が小学校に入る前のことである。父が結核で療養していたので、音楽を専門としていた母は楽譜をガリ版で印刷することによって家計を支えていた。僕が物心ついたときは、すぐ身近にガリ版の印刷機があった。僕はガリ版とともに育った。

ガリ版は僕の青春そのものだった。下敷きとするヤスリ盤と鉄筆を個人で所有して、中学、高校、そして大学時代と、それこそ日常的にガリを切っていた。もともと僕は書道が得意だったけれども、毛筆の感覚ではガリは切れない。達筆だった僕の書体は、見事に崩れてしまった。

小学校のときはガリ版で学級新聞を皆に配った。大学生のときの学生運動のアジビラもガリ版だった。党派ごとに微妙に書体が違っていた。文学好きの友人は同人誌をガリ版で発行していた。手書きのガリ版はまさに文化だったのだ。いまのデジタルでは、それは代替できていない。