研究者が人間であること 2019.02.24-03.02

僕は研究者として生きてきた。同時に一人の人間でもあった。それをどのように両立させるかが僕の課題だった。研究を仕事と割り切ってしまえば楽だったかもしれないが、それは難しかった。一人の人間であることを忘れさせるほど、研究が面白かったからだ。

「個人として研究者が人間である」 研究者はまずは個人として一人の人間であることが要請されるけれども、これは難しい。人間であること、それ自体が永遠の課題だからだ。代わって僕は自分自身にこう言い聞かせてきた。「研究者としての自分に対する最強の批判者が自分でありたい」と。

「家族の一員として研究者が人間である」 学術研究においてワークライフバランスは可能なのだろうか。現状では極めて難しい。特に子育てがある若手研究者にとっては深刻である。自分自身の反省も含めて、何とかしなければと思う。子育てもできない研究を強いるようでは、学術研究の未来はない。

「組織の一員として研究者が人間である」 組織での研究が研究者の倫理と反するときにどうするか。これは特に企業の研究者にとっては切実な問題となる。企業が組織としての倫理を守ることは当然であるが、それとは別に研究者個人の倫理をどこまで尊重できているか。それが企業に問われている。

「社会の一員として研究者が人間である」 研究者として大切なことは、自らも社会で暮らす生活者であるとの感覚を持つことである。社会では科学的合理性だけが正しいわけではない。そこには生活に根付いた日常的合理性がある。そのことに気づかないと研究者は傲慢になる。社会を低く見ることになる。

「時代の一員として研究者が人間である」 研究は目先の成果だけを求めると、いま現在のことしか見えなくなる。自分がいま、過去・現在・未来と続く時代の流れの中にいる。そのように自らを歴史の中で相対化できないと、研究者は未来に対して責任を持てない。

「研究者が人間であること」は難しい。その意味では研究者はいつも悩んでいる存在である。居直って言えば悩んでいることが、研究者が人間であることなのかもしれない。悩むことを止めたとき、研究者は人間ではなくなる。それが研究者なのかもしれない。