言葉 2019.03.03-03.09

素晴らしい自然に出会ったとき、見事な芸術作品に接したとき、思わず言葉を失う。それはおそらく僕の言語能力に問題があるのだろう。一方で思う。すべてを言葉で表現しようとすること、そのこと自体に限界があるのかもしれない。問い直さなくてはいけないのかもしれない。

会議で議論していると、誰もが望まない結論になることがしばしばある。どこかおかしいと思っても、議論はひたすらその方向になる。言葉の世界には、悪魔が潜んでいるのだろうか。その魔術に踊らされていることを、誰も気づかずに議論しているのだろうか。

人は言葉で思考する。哲学も言葉で展開される。言葉がいい加減だと、哲学もいい加減になる。そもそも世界は言葉に翻訳できるのか。これも問題だ。語りえぬものは沈黙せざるを得ないとした哲学者がいたけれども、もしそうだとすると、哲学はほとんどのことに沈黙を強いられることになってしまう。

もともと言葉による表現には限界がある。たとえば無限小の時間(瞬間)は数式では扱えるけれども、言葉で表現することは難しい。言葉という営みそのものが時間を必要とするからだ。無限小は時間を引き伸ばさなくては言葉にならない。言葉で表現する限り、アキレスは亀に追いつくことはできない。

俳句や短歌は言葉を凝縮する。言葉は長ければよいというものではない。むしろ凝縮することによって豊かな表現力を持つようになる。言葉にならないことも表現できるようになる。すべてを言葉で説明してしまっては、自然の美や人生の機微はわからない。

禅には不立文字という考え方がある。言葉でなく体験(修行)で伝えることこそが真髄であるとする。もともと釈迦が悟りを拓いたとき、これを言葉にすることは不可能だとした。それを梵天の要請で、相手に応じて仮に言葉にしたものが釈迦の教えである。それはあくまで仮であって本物ではない。

言葉で構築されたものは砂上の楼閣のようにも見える。このように言うと文系の先生方は必死になって言葉で反論してくるだろう。人は言葉の他に頼るものがないからだ。一方で文系でない僕には、言葉にならないこと、言葉になる前の世界が気になる。そこに本質があるような気になる。