自然 2019.03.10-03.16

東京生まれで東京育ちの僕は、自然に囲まれて暮らしたことがない。もはや自然のもとでは生きることはできない。そのような自分を自覚しながら、一方で自然に憧れる自分がいる。自然体で生きたいと思う自分がいる。

西洋と東洋の思想を少しばかりかじったとき、つくづく思ったことがあった。それは自然に対する見方が大きく違うことだ。西洋では、自然はあくまで自分とは違う客体である。これに対して東洋では、自然を自分と一体化させて、いわば主客未分の状態として見る。この違いはどこから来るのであろうか。

西洋思想のもととなった宗教は砂漠で生まれた。そこでは自然は冷酷で対決すべきものであった。一方で、西洋思想が育ったヨーロッパでは、対決すべき自然は比較的温暖で従順だった。従順である自然は扱いやすい。人はそのしくみを解明して征服を目指した。いまや人は神のごとく君臨している。

日本人にとって自然は豊かで美しい。一方でそれは厳しいものだ。先の大震災でそのことを思い知らされた。もともと日本列島は、地震や台風など自然が厳しいところに位置している。そこで日本人は、あるときは自然に感謝し、あるときは怖れながら、自然とともにしぶとく生きてきた。

日本語の自然には二通りの意味がある。一つはNatureの訳語としての自然で、それは人為が加えられていない、人の外側の環境だ。自然科学はこれを研究対象とする。いま一つは、自ずから然るべくしてある自然だ。自らの内にもある。言葉は老子に由来するらしいが、仏教にも自然(じねん)としてある。

近代の西洋哲学で、自然を直接扱ったものはそれほど多くない気がする。それが自然哲学さらには自然科学として独立したからなのだろうか。そのような中で、いま人は自然をわがもの顔で支配し、一方で疎外された存在になっている。自然と人の関係、これからの哲学はこの問題を避けて通れない。

環境としての自然に人々の注目が集まるようになって久しい。それが人類の生存に影響するようになったからだ。それは技術の問題でもあると同時に、現代人の生き方、さらには価値観とも関わっている。個人的には残された人生を自然体で生きたいけれども、そのような生半可なことではない。