道草 2019.03.24-03.30

僕は小学生のとき、道草を食いながら家に帰ることが多かった。誤解のないようにことわっておくけれども、僕は馬ではないから道端の草を本当に食べたわけではない。すぐに家に帰らずに、寄り道をしながらぶらぶらすることが好きだった。その道草好きはいまも変わらない。

地域によって違うけれども、昭和三十年代後半から集団登校、集団下校が始まった。登下校時の交通事故の防止、そして防犯対策がその背景にあったのだろう。結果として、子どもたちは学校帰りに道草を食うという楽しみが奪われてしまった。その自由がなくなってしまった。

中学受験の前日だった。放課後に道草して、崖にあった防空壕跡の洞穴に潜り込んで、奥を探検した。暗くなるまで帰宅しない僕を親は心配して、学校に連絡して一騒動となった。翌週の朝礼で全校生徒を相手に注意された。防空壕の中には絶対入ってはならない。親を心配させる道草を食ってはいけないと。

そもそも道草を食うとは、どういうことなのか。辞書によると「目的地に行く途中で、他のことに時間を費やすこと」とある。なぜまっすぐ目的地へ行かないのか。必ずしも目的地を避けているわけではない。ぶらぶらと道草を食う、それ自体が楽しいからだ。

振り返ってみると、僕の研究人生は道草ばかりしていたような気がする。道草していたら、宝の山を見つけたこともあった。たとえば顔の研究に出会えたことは幸せだった。道草がなかったら、僕にとって顔学はなかった。顔の学会もなかった。

道草は教育の場でも重要だ。あらかじめ大人によって用意されている道を歩むのではなく、自分勝手に寄り道をする。単なる寄り道ではない。そこでさまざまなことを経験する。思いがけない発見もある。それが大切な人生の糧となる。そうして子どもは育っていく。

いまは効率を重視する社会だ。そこでは道草は評価されない。むしろ罪悪視される。一方で僕はこう思う。社会から道草がなくなったらつまらない。息苦しくなる。さらに言えば、道草がなければ社会の進歩もない。これを言葉で説明することは難しいけれども、僕はそう信じている。