進歩 2019.06.02-06.08

近代という時代が、当然のこととして疑ってこなかったことがある。それは進歩だ。前へ進むことだ。一方でこの歳になると、ありのままでいい、必ずしも進歩しなくてもいい。そのようにも思うようになる。逆になぜ進歩しなければいけないのか、ありのままではいけないのか。問うて見たくなる。

立ち止まってはいけない。立ち止まったら、そこにあるのは堕落だ。僕の世代はそう教えられて育った。まずは復興が大切であった戦後という時代が、特にそうだったのかもしれない。三歩進んで二歩下がる。それは決して三歩下がって二歩進むではなかった。

近代における進歩は、量的な拡大・拡張を意味した。時代が要請したからだ。たとえば資本主義経済は、拡大がなければ成り立たない。利潤を生む投資先が必要だからだ。そのもとで植民地獲得競争が起きた。それは戦争へとつながった。一方で拡大がなくなると格差が拡がる。それも戦争の原因となる。

ヘーゲルの歴史哲学を持ち出すまでもなく、歴史は確実に進歩している。そう信じられてきた。西洋社会はその先頭を走っているはずだった。ところが二度の世界大戦の悲惨さはそれを打ち砕いてしまった。歴史は本当に進歩しているのだろうか。重い課題を人類は抱えることとなった。

進歩しなければいけない。その呪縛に囚われることは、もしかしたら人の煩悩なのかもしれない。科学技術も、その煩悩の営みなのかもしれない。煩悩からの解脱を説くインド哲学では、すべてが輪廻であるとする。そこにはひたすら進歩しなければいけないという直線的な価値観はない。

進歩は、辞書によると「望ましい方向へ進んでいくこと」とある。望ましい方向とは何なのか。誰がそれを決めるのか。時代の価値観が変われば、望ましい方向も変わる。進歩が意味することも変わる。進歩が前進であり拡大である時代は、果たしていつまで続くのだろうか。

近代になって人類は豊かになった。それを進歩と呼ぶならば、いま我々はその恩恵を受けている。もはや元に戻れない。しかし、一方で思う。人はそれによって本当に幸せになったのだろうか。幸せという意味では、もっと大切なことを忘れてしまったのではないか。それが何であるか、いま問われている。