板書 2019.06.16-06.22

学校の教室には黒板がある。その黒板に授業で教えたいことをチョークで記すことを「板書」という。僕は長いこと教師をしていたので、板書は当たり前のことだった。最近の学生は板書を嫌う傾向があるけれども、僕はいまでも板書が理想的な教育方法の一つだと信じている。

板書は、教師が手書きで大切なことを黒板に記す。学生はそれをノートに写す。もちろんそのままではなく、教師が口で話したことも要領よくまとめてノートに取る。そのスピードがちょうどいい。さらに言えば、教師の板書も学生のノート取りも身体運動だ。それがいい。知はそれがなければ伝わらない。

板書する黒板の優れたところは、その名の通り板が黒いことだ。濃い緑色も多いけれども、それも黒板という。そこに白を中心としたチョークで字や図を手書きする。僕はその配色が好きだった。僕の講演のパワーポイントの背景が黒になっているのは、その影響がある。

黒板に板書するときの最大の問題点は、手がチョークで粉まみれになり、その手で着ている服に触ると悲惨になることだ。講義の後にちょっとした会議に出る必要があって、正装しているときは尚更だ。白衣を着て講義するという方法もあるけれども、僕にはその習慣がなかったので、これはいつも悩みだった。

あるとき黒板に代わってホワイトボードが颯爽と登場した。でも僕はそれが好きになれなかった。最大の理由は、そこにあるマーカーのほとんどがインク切れで使いものにならないからだ。黒板のチョークはそんなことはない。文明の利器は、理想的な使い方が保証されていないときは、限りなく不便になる。

僕は黒板にはそれなりの字が書ける。一方でホワイトボードに書く字は、自分でも嫌になるほど下手だ。なぜだろうか。慣れもあるかもしれないが、僕はホワイトボードというメディアに問題があると思っている。ボードの感触、マーカーの表現能力、いずれも黒板とチョークに遠く及ばない。

ついでに言えば、学校では黒板は文化だった。たとえばなぜか知らないけれども、教室の引き戸形式の扉の間に、黒板消しが挟まっていることが多かった。ベテランの教師は心得ていたけれども、まずは新米の教師が、頭上からその洗礼を受けた。それは儀式だったのだろうか。