書斎 2019.06.23-06.29

僕のように教育と研究を職業としていると、自宅に書斎が必要だ。文系では書斎を仕事場としている先生が多い。僕は理系だったから大学にいる時間の方が長かったけれども、前日夜の講義の準備は書斎だった。一夜漬けには書斎が必須だった。

僕の知り合いの先生の書斎は本で一杯だ。本棚には収まらず、床に積み上げられる。次第に廊下が本置き場になる。さらには階段も半分は本で占領される。最後にリビングにまで本が進出すると、そこで家族の不満が爆発する。あなた何とかしてよ!と。

家族から見ると、書斎の本は単に積んであるだけだ。読んでいるように見えない。読まないのなら古本あるいはゴミとして処分したらと言われるけれども、これが難しい。書斎の本は自らの外部記憶でもあるからだ。本の処分は自らの記憶の消去、それまでの知の営みの否定につながるからだ。

書斎という名前がついていても、実体は逃げ場であることも多い。かつての一家の主が、いまは粗大ごみ扱いされている。その僅かに残された居場所が書斎だ。必ずしも本がなくてもいい。趣味の部屋であっていい。大切なことは、そこが聖域であることだ。誰にも邪魔されない空間であることだ。

「僕はトイレを書斎としている」。これはある友人が自虐気味につぶやいた言葉だ。実際にそのトイレには本棚があるらしい。考えてみればいいアイデアかもしれない。誰からも邪魔されずに、体中の力を抜いて、ゆったりした気持ちで本を読むことができる。ときにノックの嵐が吹き荒れるけれども。

頑張ってそれなりの書斎を確保しても、たとえば子どもが成長すると家が手狭になる。するとせっかくの書斎が次第に納戸になっていく。逆にもともと納戸であったところの一部を書斎に模様替えすることもある。書斎と納戸は密接な関係にある。どちらになるかは力関係で決まる。

この歳になると、どのような死に方がいいか考えることがある。前日の夜まで元気でいて、翌朝家族が気づいたら、書斎で哲学の本を読みながら永遠の眠りについていた。そのような最期を迎えられたら理想だ。いま書斎について呟いているのも、そのような想いがあるからかもしれない。