あまのじゃく 2019.07.07-07.13

僕は反抗期が長かった。亡くなった両親には本当に申し訳なかったと思うけれども、親から言われたことには、まずは反抗した。そして口答えをした。あるとき親は思わず口走った。「なんてこの子はあまのじゃくなの!」

あまのじゃくは、辞書によると「人の言うこと、することにわざと逆らうひねくれ者」とある。日本の民話では、人の心を察して口真似などで人をからかう妖怪として登場する。心を察しているから決して空気を読めないわけではない。一方で、ひねくれていて失敗ばかりしている。それがいい。

あまのじゃくは天邪鬼と記され、仏教にも登場する。仏像で四天王に踏みつけられている鬼がそうだ。僕は小さい時にあまのじゃくと呼ばれた。もしかしたら前世は、天邪鬼だったのかもしれない。そう思うと四天王に踏みつけられている鬼が可哀そうに見えてきた。

あまのじゃくの反対語は素直だ。素のまま真っ直ぐなことを言う。一方のあまのじゃくは、つむじ曲がり、へそ曲がりとも呼ばれる。あまのじゃくは、どこか曲がっている。曲がっているから、一筋縄ではいかない。だから面白い。

ほとんどの宗教は、神や仏の教えに素直であることを要求する。口答えしてはならない。これに対して、あまのじゃくだったのは、ギリシャで生まれた哲学だ。哲学ではまずは先人の説を疑う。アリストテレスとプラトンの関係のように、自らの師をも否定する。素直だったら哲学の発展はなかった。

研究もあまのじゃくがいい。それまでの学説を素直に学ぶことも大切だけれども、それだけでは研究にならない。あまのじゃくに人と違うことをする。それが研究だ。論文も、あまり素直に読まない方がよい。少し斜に構えた方がよい。そうすれば著者も思いつかなかったことを発見できる。

老人は素直な方がいい。そうであれば周りからも好かれる。幸せな老後を送れる。そう言われる。その通りだけれども、内心ではこうも思う。せっかく老人になったのだから、人と同じではつまらない。一度だけの人生の最期は、せめてあまのじゃくに死にたい。