評価ばやりである。あたかも評価なくしては進歩がないと思い込んでいるかのようである。一方で、当然ながら何でも評価すればよいというものではない。どのような評価をしているのか。それは本当に意味があるのか。評価もまた、その内容が厳しく評価される必要がある。
評価を評価する。評価そのものが目的化していないか。評価を当然視あるいは絶対視していないか。言うまでもなく、評価は未来をより良くするための手段である。評価が独り歩きすると、あるいは形式化すると、その本来の意味を失ってしまう。
評価を評価する。性悪説に立った評価になっていないか。相手を信用していないと性悪説になる。何かあったら評価する側の責任になると思うと、性悪説で評価した方が安全だ。評価は、評価される側のためにある。そのことを忘れて、評価する側が自分のことだけを考えると性悪説になる。
評価を評価する。現場を見ない評価になっていないか。最近は書類しか見ない評価が多くなった。特にトップにいる評価者は、内容の評価は下請けさせて、その結果である数字あるいは記号(例えばSABCD)しか見ない。相互比較して優劣をつけることしか関心がないと、それで十分だからだ。
評価を評価する。数値偏重の評価になっていないか。数値は客観的だとの思い込みがある。確かに数値があると、わからない人を説得しやすい。一方で、数値で評価できることと評価できないことがある。数値ばかり見ていると、自分の目でしっかり見極めることを忘れてしまう。
評価を評価する。完璧がよいと誤解した評価になっていないか。完璧さを求めると、全体を考えない局所的な最適解に陥ることが多々ある。そうであるにもかかわらず、会議では完璧さを求める正論に反論することは難しい。結果として、評価もまた完璧さを求め、評価項目が限りなく自己増殖していく。
評価を評価する。組織の競争のための評価になっていないか。外の目だけを気にした評価になっていないか。形式的な評価を強制されて、評価疲れが起きていないか。これも含めて、評価を評価する指標は多数ある。さらに言えば、大切なものは目に見えない。そのことも忘れてはならない。