懐かしのテレビ番組 2019.08.25-08.31

日本のテレビ放送が始まったのは昭和28年、僕が小学校のときだ。もちろん家にはテレビがなかったから、もっぱら友だちの家で見ていた。力道山のプロレスや大相撲は、テレビがある飲食店の窓にへばりついて見た。何度も追い払われながら。

昭和33年の2月、中学の受験が終わると待望のテレビが我が家にきた。14インチの白黒テレビ、うろ覚えだけど価格は割引で4万2千円、大卒初任給の数か月分だった。スイッチを入れても画面が映るまで20秒かかった。その時間がわくわくどきどきだった。

我が家にテレビがきたとき、画面に飛び込んできた映像が日劇ウエスタンカーニバルのロカビリーだった。ミッキー・カーチス、平尾昌晃、山下敬二郎がロカビリー3人男と呼ばれ、その熱狂ぶりは衝撃的だった。戦後が終わって時代が変わったことを、否が応でも実感させられた。

僕はテレビっ子になった。必ず見ていたのは「月光仮面」や「スーパーマン」などのヒーローものだ。「どこの誰かは知らないけれど、誰もが・・・」「空を見ろ!鳥だ!飛行機だ!いや・・・」。僕自身がスーパーヒーローになった気になった。電話ボックスに入っただけでなれる筈はないのに。

「日真名氏飛び出す」という推理ドラマ番組があった。なぜか番組よりもコマーシャルをよく覚えている。製薬会社がスポンサーで、薬屋のセットで店員さんに扮して宣伝するおねえさんが可愛かった。注目していたら、そのおねえさんは笹森礼子という名で日活の看板女優になった。

昭和30年代はアメリカから直輸入の番組も多かった。代表的なのは「パパは何でも知っている」「うちのママは世界一」。そこに映しだされるアメリカの家庭は、夢のようだった。大型の自家用車があり、キッチンには大きな冷蔵庫があった。テレビを通して、みなアメリカに憧れた。

家族で視たのはやはりNHKの番組が多かった。「事実は小説よりも奇なりと申しまして・・・」という高橋圭三アナの名口調で始まる「私の秘密」、そして水の江瀧子と柳家金語楼が紅組と白組のキャプテンとなった「ジェスチャー」。「紅白歌合戦」は視聴率80%を記録して国民的番組となった。