個性 2019.09.01-09.07

「個性輝く・・」「個性豊かな・・」「個性を育む・・」。最近、個性という言葉がバズワードのように使われている。確かに個性があることは大切だけれども、これだけ使われると、逆に個性とは何であるかがわからなくなってしまう。個性は、それだけで素晴らしいことなのだろうか。

もしある学校が次のように標榜していたら、どう考えるか。我が校は個性を育てるために、早めにそれぞれの能力によって、たとえばIQに基づいてクラス編成をしています。理系と文系だけでなく芸術系のクラスも設けて、英才教育をしています。この学校は本当に個性を大切にしていると言えるだろうか。

「個性輝く・・・」という標語が、上からのトップダウン的な選別とともに言われるときは注意した方がよい。選別して差別すれば、確かにそれぞれに違いが生まれるかもしれない。でもそれは個性とは呼ばない。個性は上から強制されるものではない。強制された段階で、それは個性ではなくなってしまう。

他とは違った優れた能力や特徴があるとき、その人は個性があると言われる。あくまで他との比較において、個性がもてはやされる。一方で、個性は英語ではIndividualityだ。個として存在していること、それが個性だ。そこには他と比べて優れているという意味はない。

「人はそれぞれが違っていい」。その通りだ。しかし、これが「人はそれぞれが違わなければならない」「個性を発揮しなければならない」という意味で使われたら、おかしくなる。普通であることも大切なのだ。それが個であることを重んずるという意味での個性なのだ。

僕は個性的な顔は、いい顔だと思っている。でもこれはその人には言えない。「あなたの顔は個性的ですね」。面と向かってこのように言ったら、誉めたつもりでも必ず嫌われる。なぜ嫌うのだろうか。個性輝く・・・と世の中では言われながら、顔だけは違うのだろうか。

その人の個性は他人にはわからない。組織の個性も同じだ。勝手に人や組織の個性を決めつけて、選別して中途半端に伸ばそうとすると、逆にその個性を押しつぶすことになりかねない。「個性輝く・・」「個性豊かな・・」という標語は安易に使わない方がいい。