毎年、この時期になると考えることがある。僕はなぜいまこの世の中に存在しているのだろうと。生を受けているのだろうと。その歳になって、まだわかっていないのかと叱られそうだけれども、そうなのだから仕方がない。
考えてみれば、僕がこの世に誕生している確率は、限りなくゼロに近い。親同士が出会わなければ僕は生まれていない。それだけでも奇跡だ。それが生まれた途端に、僕が生存している確率は1になる。そしてその存在は、少なくとも僕にとっては無限大となる。不思議だ。
僕が生まれたのは、終戦の一か月後。まだ母親のお腹の中にいるときに、家を空襲で焼かれている。それでも生まれたということは感謝以外の何物でもない。病気がちで決して丈夫な子どもではなかったけれども、何とかこの歳まで生きている。ありがとう。
子どもの頃は、誕生日が来ると嬉しかった。少しだけ大人になった気がした。誕生日から始まる新たな一年間が楽しみだった。いまも誕生日は嬉しい。それはそれまでの一年間を無事に生きることができた。それが嬉しいからだ。何とか死なないできた。その感謝の気持ちがあるからだ。
今日は74回目の誕生日。この日を迎えられることは、まったく想定していなかった。僕の人生設計にはなかった。父方の祖父は51歳で亡くなった。父親は54歳で急逝した。僕にとっては、その後はいわば余生であった。その余生が20年も続いてしまった。
残された人生、誕生日をあと何回迎えることができるのだろう。これからは、誕生日は年に一度ではなく、毎月あってもいい。命日に対して月命日があるのだから、誕生日にも月誕生日があってもいい。そのうち毎日が誕生日になれば、その毎日が生きていることへの感謝の日になる。
僕がこの世の中に生きていること、それ自体が不思議なことであれば、その不思議な人生を最後まで全うしようと思う。人生は不思議だからいい。自明だったらつまらない。よくわからないから、生きる意味がある。人生はこれからが面白くなる。そう信じて生きる。