僕は理屈っぽい議論が苦手だ。好きになれない。すっきりと論理立った議論はいい。理屈っぽい議論にはどこかに嘘があるような気がするからだ。一方でどこに嘘があるかを、理屈で反論することは疲れる。そのイライラ感が理屈っぽい議論を嫌いにする。
理屈と論理はどこが違うのか。論理は立てるもの、理屈をこねるものだ。こねるは捏ねると書く。捏造の捏と同じだ。そこにはこね回してでっちあげるという語感がある。理屈はときとして胡散臭い。会議でこれがまかり通ると、会議そのものが壊れてしまう。
そもそも理屈とは何だろうか。辞書によると理屈には二つの意味がある。一つは筋が通った道理、いま一つは筋が通らないこじつけだ。全く反対の意味が一つの言葉に同居している。理屈の反対語は理屈なのだ。それが理屈なのだ。
理屈はそのほとんどが、結論が先にある。理屈は、その結論を正当化するために後付けでつけられる。どんなことにも理屈をつけようと思えば、もっともらしい理屈がつく。理屈と膏薬はどこへでもつく。
なぜ理屈っぽい議論をするのだろう。それによって相手を説き伏せようとしているのであろうが、僕はその議論そのものに、その人の自己満足を感じてしまう。自己陶酔も疑ってしまう。これがその人に対して失礼な言い方であることは重々承知しているのだけれども。
思い込みかもしれないが、日本には理屈にならないことを尊ぶ文化があるような気がする。例えば平家物語の「諸行無常」、源氏物語における「もののあはれ」は理屈ではない。理屈ではないから文学になる。侘びや寂びそして粋、これを無理に理屈で説明しても、それは無粋というものだろう。
本当に大切なときは、できるだけ理屈は避けた方がよい。例えば愛を告白するときに理屈を捏ねまわしたら、それだけで白けてしまう。人が何かを本気でやりたいと思うときも理屈ではない。人の心を動かすのも理屈ではない。理屈よりも大切なことがある。それを忘れないようにしたい。