精神革命 2019.11.03-11.09

中国には老子と釈迦を同一人物とする言い伝えがある。老子化胡説という。老子は西方の関所をこえて姿を隠している。実はその後にさらに西方の未開地(胡)に行って釈迦となったとする説だ。確かに老子も釈迦も同時代だ。それは偶然なのか、それとも特別な意味があるのだろうか。

紀元前500年前後に、中国には老子がいて、孔子がいた。インドには釈迦が生まれた。それだけではない。ギリシャでは、数多くの哲学者を輩出して、パレスチナでは、キリスト教につながるユダヤ教の基礎が築かれた。イランでは善と悪の二元論に立つゾロアスター教が独自の世界観を説いている。

ドイツの哲学者のヤスパースは、紀元前500年前後に、その後の時代を牽引することになる思想が世界同時多発的に登場したことに注目して、その時代を枢軸時代と名づけた。まさに人類が精神的に覚醒した時代であり、精神革命と呼ばれることもある。

なぜ紀元前500年前後に精神革命が起きたのであろうか。1万年前に地球が温暖化して農耕が開始され、その後人類は成長・拡大して文明を獲得した。それが限界にきて、気候も厳しくなると、人類は自らの生き方を見直さざるを得なくなった。それが精神革命であったとする説がある。

紀元前500年前後の精神革命の特徴は、人類が自らの限界に目覚めたことだ。仏教で釈迦が説いた煩悩、ユダヤ教に続くキリスト教の原罪、ギリシャ哲学を代表するソクラテスの無知の知、老子の無為自然。精神革命は、いずれも自己を否定することから始まった。

近代という時代は、ひたすら自己を肯定してきた。神を否定して科学と技術が発達して、いまや人類は自らが神になろうといる。自然には存在しない物質を創造し、さらには遺伝子を改変することによって、自らを含む生物の進化をも、自由気儘に操ろうとしている。

紀元前500年前後の精神革命は、自己否定から始まった。改めて思う。いまという時代に求められていることは、ひたすら自己を肯定した近代の知を、もう一度否定的に見直すことではないか。それによって人類は傲慢さを捨てることができる。そのような精神革命がなければ人類の未来はない。