錯覚 2019.11.24-11.30

錯覚とは、感覚器に異常がないのにもかかわらず、実際とは異なる知覚を得てしまう現象を指す。矢印を逆にしたミュラー・リヤー錯視のように、それが間違いであることがわかっていても、そのように見えてしまう、あるいは思ってしまうのが錯覚だ。人はなぜ錯覚をするのだろう。

人は必ずしも対象を正確には知覚してない。知覚した情報を脳で再構成している。そのとき、重要な情報を周囲と区別するために強調することはあるだろう。その情報だけ感度を良くすることもあるだろう。実際とは異なるという意味では錯覚ではあるけれども、これは大切な知覚の機能なのだ。

人と人の関係は、錯覚によって成り立っているとも言える。その典型が恋人同士だ。アバタもエクボになる。恋愛はすべて錯覚だと、わかったようなことを言う友人がいた。確かに片想いの恋が冷めて相手を冷静に見ると、その通りだと思うこともあるけれども・・・。

目の前にいる人の顔は、ありのままを見ることはできない。ジロジロと顔を分析すると相手に失礼だからだ。その意味では、顔を見るときは、必ずどこかに錯覚がある。問題は、それを良い方に錯覚するか、悪い方に錯覚するかだ。そのどちらになるかは、互いに良い人間関係ができているかどうかで決まる。

化粧した顔は、錯覚のオンパレードだ。それが許されているのは、実物を見るよりも、少しでも美しく見る方がいいと、互いに納得しているからだ。自分の顔もそうだ。自分では直接見ることができないから、きっといい顔をしていると、思い込みで錯覚する。逆にその錯覚ができる人は、いい顔をしている。

僕は通信技術を専門としていた。そこでは情報を忠実に送ることが大前提であった。あるとき気づいた。人のコミュニケーションは、錯覚の連続ではないかと。錯覚しているから、気持ち良くコミュニケーションできているのではないかと。そうだとすれば、錯覚を積極的に利用した通信があってもいい。

考えてみれば、僕は自己暗示をくり返すことによって生きてきた。自分の本当の姿は、自分ではわからない。自分で思っている自分、それは実際とは違う錯覚かもしれない。それでもいい。そもそも人生それ自体が錯覚かもしれないからだ。