我無し、ゆえに我有り 2019.12.01-12.07

デカルトの言葉に「我思う、ゆえに我有り」がある。すべてを疑っても、いま思考している我が有ることだけは確かだ。それがデカルトの出発点だった。本当にそうなのか。むしろ「我無し、ゆえに我有り」なのではないか。不遜にも最近そう思うようになった。

近代における個人主義や自由主義は、個人には理性があり、しかも自由意思があることを前提としていた。一方で、現代の哲学はこう考える。人は必ずしも自由意志で理性的に思考しているのではない。「我思う」ことはすべて見えない構造に支配されている。その構造もまた決して普遍的ではない。

最近の脳研究によれば、人はまずは意識して決断して、それに基づいて行動するのではないらしい。人の行動は、意識するより先に、脳によって決められている。そうだとすると、行動に先立って思考があるのではなく、「我思う」は単に結果でしかないことになる。

仏教もまた、すべてのことは相互依存でつながっていて、それ自体で独立した存在はないとする。釈迦よりも前の伝統的なインド哲学では、人には我(アートマン)と呼ばれる個人を支配する不滅の原理があるとした。これに対して釈迦は、すべてのものには我が無いと説いた。これを諸法無我という。

仏教では小我と大我があるとされている。小我は、自分ひとりの狭い範囲に閉じこもった自我。これに対して大我は、その執着から離れた自由自在の悟りの境地だ。我有ると思っていると、小我から脱することができない むしろ徹底的に我無しとすることによって、大我としての我が有ることを悟る。

「我無し、ゆえに我有り」。この論理を一般化すると「Aは無い、ゆえにAが有る」となる。これは西洋の論理ではありえない。ところが仏教の経典、特に般若経は、この論理で組み立てられている。般若の論理と呼ばれている。難解だけれども、西洋の論理より奥が深い。

最近こう思うようになった。我が有ることを絶対とすると、人は傲慢になる。むしろそのようなものは無いとした方が、自分に対して自由になれる。謙虚になれる。我が無いとすることによって、本当の我を発見できる。それが「我無し、ゆえに我有り」だ。