善と悪 2020.02.09-02.15

それでよくその歳まで生きてこられたなと言われそうだけれど、恥ずかしいことにまだよくわかっていないことがある。それは善と悪だ。そもそも、善とは何なのか。悪とは何なのか。なぜ善はよく、悪はいけないのか。善と悪を判断する基準は時代とともに変わるのか。それとも変わらないのか。

善と悪:そもそも善あるいは悪という概念はいつからあるのだろう。おそらくはもっとずっと古いと思われるが、紀元前1000年-前6世紀に誕生したゾロアスター教では、明確に善と悪が区別されている。そこでは、善悪二元論の立場から、善なる神と悪なる神が戦いを続けている。

善と悪:ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に代表される一神教では、悪は善なる神への裏切りとして生まれた。この世で悪なるおこないを続けると、最後の審判で地獄に堕ちることになる。それを怖れて、人はひたすら戒律で定められた善いおこないに励む。

善と悪:親鸞は、善人でも救われるのだから、当然悪人は救われると説いた。もともと仏から見れば、すべての人は悪人である。それに気づいて仏に本願に帰依する人が悪人であるのに対し、善人はそれに気づかないでひたすら善行に励んで極楽往生を狙う。そこで救われるべきはまずは悪人である。

善と悪:悪は必ずしもすべて悪い意味ではない。たとえば鎌倉時代の悪党は、単に力の強い勢力という意味だったらしい。あまりにも傑出していて、そのときの権力者の命令に従わなかった人たちが悪人だった。これに対して権力に従順だった人たちが善人だった。

善と悪:人はもともと善なのか、それとも悪なのか。法治社会は、基本は性悪説にたつ。人は法で縛らないと悪いことをする。そこでは悪は法を破ることだ。捕まると刑罰を科せられる。逆に言うと、捕まらなければ、悪は許されるということになる。

善と悪:僕が小さいとき、悪いことをするとお天道様が見ていると教えられた。誰も見ていなくても悪いことはできなかった。いまは子どもたちにどう教えているのだろうか。お巡りさんが見ているだろうか。それとも監視カメラがいつもあなたを見ていると教える時代になったのだろうか。