ちょい悪 2020.02.16-02.22

個人的な好き嫌いかもしれないけれども、僕は「善」が好きになれない。もちろん「悪」がいいというわけではない。「善」と「悪」が選択肢として与えられたときは、当然ながら「善」を選ぶべきだろう。でもそれだけでは面白くない。本音を言うと「ちょい悪」、そのくらいが僕の好みだ。

「あなたは善い方ですね」と言われると、恥ずかしくなってしまう。それどころか軽蔑されたように感じてしまうこともある。なぜか。「面白くない方ですね」と言われているような気がするからだ。自分から要求するものではないが、「ちょい悪」と呼ばれるくらいが丁度いい。

人の顔も「ちょい悪」がいい。あまりに整い過ぎていると、それはそれで美しいかも知れないが、仏像の顔の前にいるようで、なぜか落ち着かない。顔は少し崩れている方がいい。そしてそれが、その人の魅力になっていれば言うことない。

性格も「ちょい悪」くらいがいい。完璧な性格なんてもともとあり得ない。もしあったらどこかに嘘が入っている。何しろそのような人はつきあいにくい。人はもともと性格も含めていい加減なものだ。相手も同じようにいい加減だと、安心してつきあうことができる。

子どものころ、優等生ぶっている子は嫌われた。むしろ「ちょい悪」の子の方が人気があった。反抗期だったということもあろう。「ちょい悪」は大人へのささやかな抵抗だった。おおげさに言えば、それが自分のアイデンティティだった。

老人も「ちょい悪」がいい。定年になれば組織の顔をしている必要はない。謹厳実直よりも「ちょい悪」の方がずっと楽しい。老い先もそう長くないのだから、思い切って楽しもう。でも「ちょい悪ファッション」には気をつけよう。商魂は「ちょい悪」をもビジネスとして、あなたの財布を狙っている。

「ちょい悪」にはペーソスがある。本当は「悪」になりたいのかもしれない。でもその勇気がない。まだまだ家族に対する責任もある。悲しませたくない。だから「ちょい悪」だ。単なる自己満足と言われてもいい。もともとそのようなささやかな幸せを、大切にしてきたのだから。