バーチャルでの代替 2020.04.05-04.11

僕の専門はマルチメディアであるが、いまから四半世紀前に次のような講演をしていた。これから人は二通りの世界を生きる。リアルな世界とネット上のバーチャルな世界だ。環境がおかしくなって、リアルな世界での活動が制限されても、それはバーチャルな世界で代替できる。

バーチャルでリアルをどこまで代替できるのか。これまでは不可能だと思われてきたことも、実際に代替してみると可能なことが多いはずだ。たとえば会議はどうか。デスクワークの仕事はどうか。知人との交流はどうか。とりあえずは試してみる価値はある。いまがその好機かもしれない。

教育はどこまでバーチャルで代替できるのだろうか。感染症が拡大して、大学でもオンラインの授業が推奨されるようになった。それがネット時代の大学の姿であるとする意見もある。一方で、ネットですべて代替されるとすれば、大学の存在意義は何だったのか。それが厳しく問われることになる。

初等中等教育はどこまでネットで代替できるのだろうか。そもそも学校はどのような役割を担っていたのか。知識の伝達だけだったら代替できるかもしれないが、それだけではない筈だ。もし人間力なるものがあるとすれば、それは人との直接的な触れ合いのなかで育つ。人との葛藤を通じて育まれる。

人と人の触れあいを、バーチャルで完全に代替することには限界がある。自然との触れ合いも同じだ。人も自然もかけがえがない。かけがえのないものとの触れ合いは、それがリアルであるからこそ意味がある。バーチャルで安易に代替できるものではない。

リアルをバーチャルで代替できたとしても、一時的な代替と永続的な代替は区別する必要がある。リアルな世界での活動がさまざまな理由で制限されたとき、それを一時的にバーチャルで代替して凌ぐことはやむを得ない。問題はそれを当然として、永続的に代替してよいかだ。

僕は、ネットでは代替できない人の営みがあると信じている。安易に代替すると、本当に大切なことを失うことになる。そもそも人の遺伝子は、バーチャルな世界で生きることを想定していない。人には適応能力があるけれども、それを過信すると、人類そのものの存続をおかしくするかもしれない。